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【農家の10年 東日本大震災】縁と「おいしい」の言葉に支えられ 南相馬市のコメ農家、豊田寿博さん(38)

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稲刈りを行う豊田寿博さん=昨年10月18日、福島県南相馬市(佐藤徳昭撮影)
稲刈りを行う豊田寿博さん=昨年10月18日、福島県南相馬市(佐藤徳昭撮影)
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 田植えの春は緑。稲刈りの秋は黄金色。そして、次の田植えのために張った水が湖のように広がる。田んぼは四季折々の表情を見せる。だが、東京電力福島第1原発事故後、田んぼから色が奪われた。

 いま、福島県南相馬市鹿島区で、離農した農家と自身の田んぼ14ヘクタールを耕している。新規就農したばかりだった震災前のコメ作りは楽しさがあった。震災と原発事故を経て再開したコメ作り。生まれ育った故郷の農地を再生させるという覚悟を持ち、田んぼに立つ。

 あの日、精米所でのアルバイト中に大きな揺れに見舞われた。建物にも津波が押し寄せ、すんでのところで逃げた。翌日は消防団員として津波被災者の捜索活動に当たっていた。

 「原発が爆発しそうだ」

 すぐに家に戻り、家族とともに福島市に避難した。鹿島区は政府の避難指示区域にはならなかったが、コメの作付はできなくなった。田んぼの被害や放射能の影響がどれくらいあるのかも分からず、有機米はもうできないだろうとあきらめの気持ちもあった。

 平成24年春。避難先から一時帰宅したとき、祖父の俊則さん(90)が田んぼを耕していたことを知った。

 「草ボーボーにしてらんねべ」

 俊則さんは翌年もその翌年も1人で耕し続けた。だから、周囲の田んぼが草だらけになっても、豊田家の田んぼは荒れなかった。

 希望。また祖父と父と田んぼをやりたい。江戸時代から280年以上続く農家。親子3代で作る有機米は首都圏を中心に全国に顧客がいた。こだわりが強く、ときに衝突もした。それでも3人で丹精を込め、収穫し、精米して食べたコメのおいしさは格別だった。

 25年4月、父の益夫さんが帰らぬ人となった。まだ55歳だった。命が尽きる直前まで、「田んぼをやりたい」と口にしていた。

日本酒を手にする豊田寿博さん(中央右)とコメ作りを応援する首都圏の“ファン”
日本酒を手にする豊田寿博さん(中央右)とコメ作りを応援する首都圏の“ファン”
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 2年後、避難先から鹿島区に戻った。まずは水回りの修繕から。28年には試験栽培を行い、再開に向けて安全性を確認。事故から6年後の29年、本格的に栽培を再開した。

 「ようやく鹿島でコメ作りができる」

 うれしさは、あった。それでも父のいないさみしさ、放射能への不安が上回った。震災前の顧客もゼロになっていた。

 「置いていってもいいけど、捨てるよ」

 販路拡大のため、営業に赴いた先で、そんな言葉を浴びた。手に取ってもらえないことすらあった。福島県産米は、放射性物質濃度を調べるために県が全量全袋検査を実施した。安全性は確認されていたが、風評被害は根深かった。

 転機が訪れたのは令和元年7月。地元の同級生が関東の友人を連れ、相馬地方の伝統行事「野馬追(のまおい)」の合間に豊田農園に立ち寄った。

 「こんなにおいしいおコメ食べたことない!」

 ふるまったコメとおかずはあっという間になくなった。久しぶりに聞いた言葉にうれしさがこみあげた。

 その年に収穫した酒米から酒造りにも挑戦した。酒の名は地名にちなんで「soma(ソーマ)」と名付けた。酒をきっかけにコメの注文も入るようになり、戻ってきたかつての顧客もいた。

 コメの味にほれ込み、“ファン”になった人たちとの交流も続く。コメと酒を中心に人の輪が広がってきている。

 避難中の経験も生きている。当時就職していた野菜工場での経験を基に葉物野菜やイチゴ栽培を始める予定だ。いずれは観光農園などを展開し、雇用を生み出したいとも考えている。

 震災と原発事故。「起こったことは最悪」だった。

 でも最悪の10年は、縁に支えられた10年でもあった。これからもこの地でコメ作りを続ける。地域の農業を再生させたい。1人でも多くの人の「おいしい」を聞きたい。(大渡美咲)

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