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【戦後70年~大空襲・証言(12)】東京に続いて狙われた大阪「炎の中でも動いた地下鉄、大阪劇場の屋根には焼夷弾が吸い込まれ…」高塚宏一さん(74)=東京都小金井市在住

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東京に続いて狙われた大阪「炎の中でも動いた地下鉄、大阪劇場の屋根には焼夷弾が吸い込まれ…」高塚宏一さん(74)=東京都小金井市在住

戦後70年~大空襲・証言(12)更新

 東京の下町が焼かれた大空襲からわずか数日後の昭和20年3月13日深夜から14日にかけて、B29は大阪でも容赦なく大規模な空襲を行いました。大人の中には「東京の次は大阪だろう」という人も多くて、ある程度の心構えをしていた人もいたと思いますよ。ただ、私は当時まだ4歳でしたから、東京大空襲のことなど知るはずもなく、ただ恐ろしくて泣くばかりでした。

 大阪市南区(現中央区)の日本橋に住んでいました。自宅前の幅の広い道路には市電が走っていて、近くには生國魂神社やデパートがあったことを覚えているよ。難波の千日前も歩いて行ける距離だったね。

 もともとわが家は米穀店だったのだけど、私が物心ついたころには精米機など米穀店を彷彿させるものはほとんど置いてなかったね。食糧公団に勤めてた父も昭和19年の冬ごろ召集令状が届いて出征してしまった。それからは、父方の祖父母と母、妹との4人暮らしでした。

 3月13日深夜、空襲警報が鳴り始めると、母は妹と私を近くの防空壕(ごう)に連れていきました。いつ空襲警報が出ても逃げられるように、普段着のまま寝ることが習慣になっていたから、あとは防空頭巾をかぶるだけで準備に時間はかからなかったね。寝るときは寝間着を着るってことは、終戦後になって知ったよ。

妹の頭上、防空壕の通気口に爆弾が…

 祖父母の面倒も見ないといけなかった母は、私たちを非難させると自宅に引き返しました。妹と私は防空壕の一番奥のほうで身体を小さく丸めて、早く母が戻ってくるよう願っていた。

 防空壕には四角い小さな通気口があって、そこから薄明かりが差し込んでいたんだ。「コトリ」と音がしたかと思うと、その通気口に爆弾のようなものが挟まってね、ちょうど妹の頭の上で止まったんだ。みんな驚いて、外へ外へと飛び出したんです。

 外は異様な雰囲気でした。怒号が飛び交うというのか、通りを行き交う人たちは大声で何か指示を出すような、文句をいうような感じでね。母が迎えに来てくれたとき、民家に焼夷(しょうい)弾があたって火に包まれて崩れ落ちていくのを見たよ。若い男の人だったか、「千日前はまだ火の手が上がっていないから逃げられるぞ」って教えてくれましてね、母は妹をおぶって私の手を引いて逃げました。

 松竹歌劇団のレビューなんかをやっていた千日前の大阪劇場の近くには広場があって、私たちがそこまでたどりついたときには、すでにたくさんの人たちが集まっていました。

 大劇の屋根を見ると、爆弾だか焼夷弾だかが次々と吸い込まれていくんだよ。間もなくすると勢いよく火の手が上がったんだ。大きな火柱のような感じかな。母は再び祖父母のところにいってしまったし、恐ろしいのと心細いのとで泣きたい気分だった。

 広場の周辺では近所の女性たちがメガホンを持って、自警団みたいな人たちだったのかな、必死になって「飛んできた火の粉を消してください」って叫んでいましたよ。

 私も火の粉を追いかけて足で踏んで消そうとしたけれど、いろいろな建物が燃えて辺り一帯が火の海でしょう。火の粉はあちこちから飛び交ってくるし、4歳の足でいくら踏みつけても全く消えない。どうしたらいいのかわからなくなって、とにかく母が早く戻ってきてくれるよう泣き叫んで助けを求めました。

薄暗かった地下鉄の車中、阪急に乗って十三へ

 なんとか母と合流できたあと、避難誘導にあたっていた男性と一緒に燃える火の中を走り抜けました。ちょうど高島屋デパートの裏手あたりで、高架の上に南海電車が見えたのです。何両かが炎に包まれていましてね、なじみのある電車まで燃えてしまうということが恐ろしいというのか、妙にリアルに感じました。

 NHKの連続テレビ小説「ごちそうさん」で、大阪大空襲のときに地下鉄に逃げ込んで命拾いしたというエピソードがあったでしょう。私もまさにそうなんですよ。

 炎の中を逃げているときの記憶は断片的で、次におぼえているのは地下鉄の中の様子だね。難波からなんとか地下鉄に乗れたようなんだ。大混雑という感じではなかったけれど、大人たちは「梅田のほうはまだ燃えてないから急げ」とわれ先に乗り込んでいたかな。車内は電気がところどころついているような、薄暗くて、もやがかかったような状況だったね。

 本町駅で、若い男性2人が「ここで降りる」「いや降りない」と口論を始めたんだ。周囲の人は「この辺も燃えているはずだから外には出ないほうがいい」と止めていたのだけど、結局2人とも静止を振り切って駆けだしていってしまった。外に出てどうなったのだろうね…。

 梅田は、火の海だった難波や心斎橋とはくらべものにならないほど穏やかだったように記憶してるよ。私鉄もいろいろ動いていたはずだ。母の実家が十三(じゅうそう)にあったから、阪急に乗って十三に向った。のちのち母から聞いた話だと、夜中の雑踏する梅田駅を切符も買わずにそのまま乗車できたらしい。十三の祖父母の家ではみんなに「よく無事だった」と迎えられてね、出してくれた温かいうどんが、疲れた身体に染みわたるうまさだったよ。

 大空襲の2、3日後に自宅がどうなっているか見に行きました。周囲見渡すかぎり赤茶けた焼け野原でした。建物の残骸ばかりの中で、生國魂神社の緑だけは鮮やかだった。

市民や街を守るため、「必死に職務を果たしてくれた人がいた」

 あの大空襲の後、日に日に大阪でも空襲が増えていったね。十三も安全ではなくなっていった。

 空襲があれば多かれ少なかれ亡くなる人がいるだろう。近くのお寺に埋葬していたようだけれど、あるとき、いつもより多く死者が出たのだろうね。淀川の河原に木を燃やして、火葬していたのを堤防の上から見たことがあるんだ。

 一体何をしているのだろうと思ってね、子供の好奇心というか、単純に不思議に思ってみていたのだけれど、火葬していた人から「そんなところから見るんじゃない。降りろ」とひどく怒られたよ。

 今になって考えてみると、すでに亡くなっている人に対してでも最低限の礼儀を尽くせってことだったと思うんだ。高いところから見下ろすなんて無礼だということで怒鳴られたんだろうね。当時は幼すぎてそんなことはわからなかった。火葬していたことが強烈に頭に残って、亡くなった人の骨が出てくるのじゃないかと思うと怖くてね、その後はあまり淀川の河川敷では遊ばなくなったね。

 5月には母と妹と3人で三重県松阪市の寺に疎開しました。近くには学童疎開している子供たちもいて、家族が恋しくて抱き合って泣いている姿もみましたよ。子供でも我慢、我慢の時代だったんだね。

 戦争中の思い出はいろいろあるけれど、やはり一番に思い出すのは、あの大空襲にもかかわらず真夜中に地下鉄が走って、阪急などの私鉄も運転していたことだよ。今でも不思議に思うね。市民を守るため、都市のインフラを守るために、必死に職務を果たしてくれていた人がどこかにいたのだと思うと、胸に熱いものがこみ上げてきますよ。

 

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