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【戦後70年~大空襲・証言(11)】壊滅した深川から漂うのは「油の刺激臭、煙でいぶされた臭い、髪の毛が焦げた臭い、遺体の腐敗臭…」松崎静江さん(83)=東京都新宿区在住

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壊滅した深川から漂うのは「油の刺激臭、煙でいぶされた臭い、髪の毛が焦げた臭い、遺体の腐敗臭…」松崎静江さん(83)=東京都新宿区在住

戦後70年~大空襲・証言(11)更新

 東京の下町が一夜にして焦土に変わった昭和20年3月10日未明、私は自宅のあった対岸の月島から、本所や深川が燃えている様子を見つめていました。

 空襲警報が鳴ったとほぼ同時に、編隊を組んで飛んでくるB29の黒い影が雲の切れ目から見えたの。月島の真上あたりで投下された焼夷(しょうい)弾が、風に流されるようにして深川方面に落ちていったのよ。

 いくつも束ねられていた焼夷弾がばらばらと降ってくる様子は、まさに雨のようだった。深川周辺はあっという間に真っ赤に染まって、空は新聞が読めるほどの明るさだったの。ものすごい勢いの熱風とともに火の粉や火がついたままの紙くず、布きれだとかが月島まで飛んでくるようになるまで、さほど時間はかからなかったわね。

 当時、私は13歳。昭和18年ごろに母と妹が新潟に疎開していましたから、父と兄との3人暮らしでした。

 19年になって空襲が日常化すると、父は空襲警報が出されるとともにゲートルを巻いて警防団の仕事に飛び出していったし、兄も勤務先の新橋からほとんど帰ってこられない状況が続いたの。夜はほとんど一人で過ごしていたわ。3月10日もそうだった。

 家を守るのは私しかいないわけでしょう。もちろん防空壕(ごう)に向かうわけだけれど、どうしたら財産を守れるか、被害を最小にとどめられるか考えながら行動しなければいけないから、恐怖を感じている余裕がないのです。父が集めていた反物を、燃えてしまわないように水を張った風呂の浴槽に沈めて、先祖代々の位牌(いはい)を持って自宅を出ました。

「月島を守らなければ」飛んでくる火の粉を走ってはたたき落と

 深川から飛んでくる火の粉は想像以上に多かったの。隣組と共同の防空壕に逃げ込んだものの、近所のおじさんたちに「このままでは月島が燃えてしまう。子供たちも防空壕に入っている場合ではない」と言われましてね。大人と防火作業にあたったのよ。

 物干しざおのような長い棒の先に、短い縄をたくさん束ね、直径約10センチの太さにした「火はたき」という道具があったの。その先を防火用水に浸して、飛んでくる火の粉を走って追いかけてはたたき消しました。

 作業中、何度か後頭部を殴られるような衝撃を感じることがあったのよ。何事かと振り向くと、近所の人が「消火しないと。我慢して」といいながら、私の防空頭巾に飛んできた火の粉をたたき消してくれていたの。防空頭巾の後頭部や背中に火の粉が飛んでくるとお互いにたたき消し合いました。本人が気づいたときには手遅れで、火だるまになってしまうこともありましたから命拾いしたわ。

 深川方向から吹いてくる風は勢いもさることながら、ものすごく高熱で、顔や身体から汗が噴き出したました。物が燃え落ちる音、ドーンという爆弾の落ちる音、B29のエンジン音などすさまじい騒音に包まれていたはずなのだけれど、「月島が燃えたら生活する場所がなくなってしまう。なんとか守らなければ」という一心で作業していたから無我夢中でした。

 ようやく足を止め、気が付いたときには、東の空が白み始めていたわね。空にB29の姿はなくなっていたけれど、深川方面はまだ火が燃えている様子で、そのころになって初めて恐怖で腰が抜けて立ち上がれなくなってしまったの。ただ、月島を守りきったことに達成感があったし、父や兄からも家を守ったことを褒めてもらった記憶があるわ。

橋の下を流れる多数の遺体、日に日にふやけ、膨らんでいき…

 数日後からはバケツを抱え、深川方面の焼け野原に通って、生活の足しになるものを探す日々が始まりました。工場跡にはコークス、せっけんなど生活の足しになるものが多くありましたからね。ブリキ缶、トタン板なども食べ物を煮炊きするのに重宝したため、ちょっとした宝物探しのような気分だったのよ。

 月島と深川はほんの数キロ離れているだけなのに、橋を渡るあたりから異臭が強くなってくるの。

 空襲でまき散らされた油の刺激臭、煙でいぶされた臭い、髪の毛が焦げたとき特有の、ノリが焦げたような臭いに加え、遺体の腐敗臭もありました。見渡すかぎりの焼け野原でしょう。全く違う景色が広がっていました。

 道ばたに残された遺体は真っ黒に焼け焦げてしまっていて、かろうじて人の形をとどめているような状態だったから、丸太なのか人間なのか、ひと目では判断するのは難しかった。

 遺体を目にすることは通学時にもありました。月島第3国民学校に通うために使っていた橋の下には、深川方面からは毎日のように空襲で亡くなった方々の遺体が流れてきていました。隅田川河口、現在のお台場方面に流れていくの。

 橋っていっても、今みたいに立派なものではなくて木製の橋でしょう。橋板の隙間から、橋の下の様子が見えるの。火の中を逃げ惑い、ようやく川にたどりついたのであろう焼け焦げた遺体、火に巻かれるよりは冷たい水に飛び込むことを選んだのか、損傷が比較的少ないように見える遺体などいっぱいでした。

 目にしたのはいずれもうつぶせの遺体ばかりだったけれど、日に日にふやけて水ぶくれした遺体は、もとの2倍近くの大きさになっていくの。色も黄色く変色していって、人間とは信じがたかったわ。

 遺体処理に当たる兵隊さんはみなさん無表情でしたね。次々に運ばれてくる遺体はおそらく下町大空襲で亡くなった人たちだったはず。処理しても処理してもまったく追いつかなくて、感情を無にしなければ処理する側の精神がおかしくなってしまいそうでした。亡くなった人の尊厳なんて言っていられる状況ではなかったのです。

学徒動員先で迎えた終戦の日、「もう空襲はなくなるのだなあ」

 下町大空襲の後にも、危ない目にあったことがありました。機銃掃射です。

 昭和20年6月から浜松町の国鉄印刷局に学徒動員されていました。切符をつくることが主な仕事だったの。月島-浜松町間を通う国鉄の車内でね、機銃掃射に遭ったのよ。

 低空飛行で近づいてきた敵機から「バババババーン」とものすごい爆音がしてね。恐ろしいのと、その威力にあっけにとられるのと半分半分。友達と身体を寄せ合ってひたすら敵機が去るのを待っていたの。そのときにね、パイロットが笑っている顔が見えたの。なんて憎らしいのだろうと思ったわ。

 学校では長刀の訓練を行っていたけれど、機銃掃射の威力、際限なく降ってくる焼夷弾を目の当たりにして「長刀や竹やりで対抗しようと考えているようでは日本も終わりだ」と父と話した記憶があります。

 終戦の玉音放送は国鉄印刷局の中庭で聞きました。男性たちが崩れ落ちるようにして泣き出して、子供だった私はわけもわからないままその様子を眺めていました。終戦の喜びも悔しさもなくて、「もう空襲はなくなるのだなあ」とぼんやり思ったものです。

 このころのことでその他に覚えていることといえば、替え歌かしらね。

 皇紀2600年を祝って作られた行進曲風の歌は、戦費調達のため一斉に値上げが行われたタバコの銘柄に掛けたもので、「金鵄(ゴールデンバット)あがって15銭 栄えある光30銭 今こそたばこは高くなり あれほど高い鵬翼がまたまた上がって50銭 ああ一億の金が減る」って。

 倹約を呼びかける時代を風刺したものもあったわ。「満州娘」のメロディーに乗せて、「今は非常時節約時代パーマネントは止めましょう 高靴履かないでげた履いて お嫁に行くときゃモンペ履いて 王(わん)さん待ってて頂戴な」だったかしら。意外と70年たった今でも歌えるものね。それだけ日々の生活が過酷で、記憶に深く刻まれたということなのでしょうね。(談)

     

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