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【戦後70年~大空襲・証言(10)】焼き尽くされ、人の気配も生活音もなし「上野から、建物で遮られていた東京湾が見えた」平井道信さん(79)=群馬県板倉町在住

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焼き尽くされ、人の気配も生活音もなし「上野から、建物で遮られていた東京湾が見えた」平井道信さん(79)=群馬県板倉町在住

戦後70年~大空襲・証言(10)更新

 もともとは東京都下谷区(現台東区)の根岸あたりに両親、祖母、弟と暮らしていました。その家は昭和19年冬ごろの空襲で焼け出されてしまって、徳川将軍家の菩提寺(ぼだいじ)で有名な寛永寺に近い上野桜木の借家に引っ越し、そこで3月10日の下町大空襲を迎えました。当時は9歳でした。

 やはり空襲警報が鳴ると緊張はしますよ。ただね、あまりにも空襲に慣れてしまっていたので、冷静に防空頭巾をかぶり逃げる準備を始めました。上野の高台からは、浅草方面の空にB29が無数舞っていて、地面近くが赤々と燃える様子が見えました。

 判断力もさえていました。B29の多さからして、隣組との共同の防空壕(ごう)は簡素すぎて身を守れないと直感で思ったんだ。

 自宅から1キロ弱のところに上野動物園があり、その裏手に、近隣住民が共同で大きな防空壕を作っていました。奥行きが長くてね、50メートルくらいあったと思います。不忍池のふちのほうまで続いていたと記憶しています。そこなら大丈夫だろうと思って逃げ込みました。

 上野、谷中あたりは古い寺が多くて、そうした寺の中には陸軍が拠点としていたところもあったけど、そうした寺からも年若い兵隊さんが逃げてきていましたよ。焼夷(しょうい)弾や爆弾の音が聞こえてくるでしょう。みんな防空壕の中で息を潜めて、早く空襲が終われと念じていたんだ。頑強な防空壕のおかげで私は一命をとりとめました。

■「遺体を運んでいるようだったけど、真っ黒な炭になっていて…」

 夜明けとともにB29が去ったことを確認して外に出ると、周辺の風景の変わりぶりに愕然(がくぜん)としました。西郷(隆盛)さんの銅像下から見渡してみると、残っているのは上野松坂屋デパートや浅草松屋デパートの建物ぐらいです。その他は全て焼き尽くされている。人の気配だとか生活音も全くなくて、そこはかとない恐怖を感じました。

 春霞なのか、爆撃によって巻き上げられた土煙なのか、まだ燃え続けているがれきの煙だったのかもしれないけれど、視界がぼんやりと曇っていた記憶があります。そうしたら、そばに立って深川の方を眺めていた友達が「キラキラと光るものが見える!」って言うんだよ。それまで建物だとか街並みで遮られていた東京湾が見えたんだ。

 その日のうちに「本所、深川が全滅」という情報は耳に入りましたよ。数日すると、全滅といわれた街の方面から、トラックが上野にも来るようになりました。遺体を運んでいるようだったけれど、真っ黒な炭になっていて、人の形をとどめていないようなものが山積にされていたから、初めてトラックを見たときは何を運んでいるのだかわからなかったね。

 遺体が運び込まれたのは、現在の国立科学博物館の裏手あたりだったかな。一時的に埋葬していたのだと思うけれど、年老いた作業員が、とび口に遺体を引っかけてトラックからおろしてね、浅く掘られた溝に落として土をかぶせて、番号札を立てていくんだ。作業していたおじさんは無表情だったね。感情を押し殺したような顔で黙々と作業をしていた。

 そこそこ広い土地だったけれど、遺体は次々に運ばれてくるから、あっという間に埋める場所がなくなってしまったんだ。こうした臨時の墓地は隅田公園にもあったと後から聞いたことがあるな。悲惨な話だよ。

■芝生を剥がしてサツマイモ栽培、でも空襲激化で収穫できず…

 そのほかに印象深い思い出といえば、国立博物館の脇の空き地を耕して野菜を育てたことかな。

 今、国立博物館の「平成館」が建っているあたりは、当時は芝生の広場だったんだよ。昭和19年の秋以降戦況が厳しくなると、食糧不足も深刻化していった。

 そこで、私が通っていた小学校では芝生をはがして土を耕し、サツマイモを植えたんだ。農作業はだいたい10日に一度、2~3時間かけて水やりをしたり草むしりをしたりね。ただ、収穫前に空襲が激化して学校閉鎖になってしまったから、実際にどんなものができたのか食べることはなかった。肥料もなく水だけで育てていたから成長も遅かったし、きっと食べてみたところで特別おいしいこともなかっただろう。

 それからね、上野公園の中央、いまは噴水広場になっているあたりには高射砲陣地が作られていたんだよ。4~5台の高射砲がさまざまな向きに配置されていた。周りは板壁で覆われて外側からは見えないようになってました。

 実際にB29を迎え撃ったかといえば、高射砲はあっという間に弾切れになってしまって、まるで頼りにならなかった。子供心に「日本はだめなのではないか」と心配になりましたよ。

■「東京はどうなっているかなあ」線路に耳付け故郷を感じる疎開生活

 もうひとつ忘れられないのが、疎開したときの心細さだね。

 下町大空襲以降、このまま東京にいても空襲がひどくなるだけと判断して、4月ごろに母の田舎を頼って秋田に縁故疎開しました。

 まるで外国に来たみたいだったね。まず、なまりが強くて言葉が聞き取れない。友達もいない。街と田舎では遊び方も違うから、どうやって遊べばいいのかわからない。東京や上野が恋しくて仕方がなかった。

 近くに鉄道があったのだけれど、そこを1日に一度だけ東京行きの汽車が通るんだよ。「東京はどうなっているかなあ」なんて思いながら眺めてね。汽車が通り過ぎてからは線路に耳を付けるんだ。走る音だとか振動が伝わってくるだろう。何も感じられなくなるまで線路から離れられませんでした。

 秋田に引っ越して約4カ月で終戦を迎えた。家探しのために東京に戻ってみると、状況は想像以上に悲惨でした。上野駅の地下道は浮浪者があふれて、戦災孤児も多くいましたよ。ぼろ布みたいなものを身にまとってやせ細った赤ちゃんを抱いた女性は、何をするわけでもなくうつろな目をして座り込んだまま物乞いをしていました。自分は恵まれているほうだと感謝しました。

■食料も、住むところも、着るものもなく…ヤミ屋で暮らす日々

 間もなくして父が亡くなって、子供2人としゅうとめを食べさせていかなければならなくなった母は、ヤミ屋を始めました。埼玉周辺の農家に出向いて米や麦、芋など主食にできる農作物を手に入れては、買ってくれそうな人の家を訪れて「どうですか買いませんか」と直接交渉するんです。

 なじみのお客さんができたころ、取締りに遭遇し、上野警察署に連れて行かれてしまったことがありました。母は「ヤミのものを食べなければ生きていけない。取り締まる係官もヤミ米やヤミ物資で日々暮らしているではないか」と、かなり抵抗したようでしたが、食糧管理法に基づいて全て没収されてしまったそうです。母は戦後何年経っても「あのときは悔しかった」と顔を真っ赤にして怒っていましたね。

 食糧もなく、住むところにも困り、着るものもみすぼらしいものしかない…という生活は終戦から3~4年間続きました。外地から引き揚げてくる人たちもいましたから、就職口の奪い合いもありました。私も義務教育を終えて小さな町工場に就職して、粗食ながらも3食食べられるようになったのは、給料3千円をもらうようになってからでしたね。(談)

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