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【大場一央の古義解~言葉で紡ぐ日本】川路聖謨 道理に殉じた幕臣

 一連の交渉では、局面打開を図ろうにも朝廷の横車や、攘夷派のテロに足を引っ張られ続けた。日本は袋小路に追い込まれ、国家存亡の危機に立たされた。

 林、水野と並び難局打破に奮闘した幕臣に川路聖謨(としあきら)(1801~1868)がいる。川路は、ペリーの浦賀来航から遅れること1カ月、長崎に現れたロシア艦隊を率いたプチャーチンとの交渉にあたった。巧みな冗談でロシア側の心をつかみ、これほどの交渉上手はヨーロッパでも珍しいと言わしめた。クリミア戦争下でのロシアの窮状をつかみ、プチャーチンが焦って交渉を進めるのをのらりくらりとかわし続けた。最終的に締結した「日魯(ロシア)通好条約」では千島列島の択捉島以南の領有と、樺太の日露混住を認めさせた。新暦での締結日、2月7日は「北方領土の日」となっている。

 そんな川路は豊後国(現大分県)の天領、日田の生まれである。幕府の官吏採用試験である筆算吟味に及第してからは会計畑を歩み幕政の中枢に入った。一時、奈良奉行に左遷されたものの、当地では囚人の待遇改善に着手。さらに積極的な景観整備や本居宣長の神武天皇陵推定に異議を唱えた調査も行った。大坂町奉行を経て、勘定奉行へと昇進。再び幕府の財政を担うようになった。ただ、ペリー来航に伴い海岸防禦御用懸に任命され、一転して外交に足を踏み入れる。水野や川路ら会計畑の人材の外交への投入は、幕府が一連の交渉には、多分に経済問題が含まれていると理解していたからだ。

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