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【大場一央の古義解~言葉で紡ぐ日本】川路聖謨 道理に殉じた幕臣

 天津神(あまつかみ)に 背くもよかり 蕨(わらび)つみ 飢えにし人の 昔思へば-辞世

 嘉永6(1853)年のペリー来航以来、国内は騒然となっていた。その混乱を前に、多くの幕臣が粉骨砕身の働きを見せたことはあまり知られていない。

 日米和親条約の締結交渉では林大学頭(だいがくのかみ)家11代当主、林復斎(ふくさい)は、アメリカ側の議論をことごとく論破。函館と下田の2港のみを開港するという線を守り通し、通商を認めるなどの譲歩をしなかった。復斎の理知的で峻厳な態度はアメリカ側からも畏怖の対象となった。

 国交樹立後、浮上したのは為替問題だ。幕府は京都開市といった朝廷や攘夷派を刺激する諸外国の要求を押し返す引き換えに、金銀貨の純度差を利用した荒稼ぎを許す不利な交換比率などを飲まざるを得なかった。米国総領事ハリスをはじめ、為替で暴利を貪(むさぼ)る多くの外国人に対し、当代きっての貨幣通、水野忠徳(ただのり)は新鋳、改鋳による対抗を企図した。

 水野の貨幣政策は、貴金属の価値に紐づいた実物貨幣が当たり前とされた時代にあって、現代の紙幣と同様に信用ベースの名目貨幣を軸とした先進的なものだった。しかし、それは諸外国の猛烈な反発と軍事力を背景にした圧迫を受け頓挫する。結果、国内で流通する貨幣量の急減による物価の大幅な上昇を止めることができず、大恐慌が発生して世情はさらに混乱する。

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