PR

地方 地方

【大場一央の古義解~言葉で紡ぐ日本】藤田東湖 「正気」示す大学者

 生きては当(まさ)に君の冤(あだ)を雪(すす)ぎ、復(ま)た四維を張るを見るべし。死しては忠義の鬼と為り、極天皇基(きょくてんこうき)を護せん『文天祥正気の歌に和す』

 第9代水戸藩主、徳川斉昭(なりあき)が改革を進めていくにあたり、右腕として恃みにしていたのが藤田東湖(1806~1855)である。東湖の父は後期水戸学の先駆者、藤田幽谷で、幽谷の一番弟子、会沢正志斎とともに将来を期待されていた。学問では江戸で折衷学派の亀田鵬齋、考証学派の太田錦城から教えを受け、武道でも神道無念流の剣豪、岡田十松の下で腕を磨くなど、幅広い交流で見識を養った。

 19歳のとき、大津浜(現茨城県)にイギリス船が漂着する。尋問役を務めた会沢は、捕鯨目的とする船長の言動を偽装と断じた。船員が海図上で日本とイギリスの航路を盛んになでたことに、日本植民地化の意図を感じた、などと著書『諳夷問答』に記している。東湖は事件に激高した幽谷から「イギリス人を鏖殺(おうさつ)=皆殺し=して、日本の正気を天下に発揚せよ」と命じられ、愛刀をひっさげ現場に急行したものの船出の後だったというが、この経験で強烈な危機感が芽生える。

 幽谷の死後、21歳で家督を継ぎ、『大日本史』を編纂(へんさん)する彰考館に勤務。8代藩主、徳川斉脩(なりのぶ)の死去に伴う家督相続騒動では、斉昭派として擁立に尽力した。以後、斉昭側近としての立場を築く。口八丁手八丁の東湖に加え、穏健な戸田忠太夫、調整型の武田耕雲斎の側近3人は「水戸の三田」と称えられた。

続きを読む

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ブランドコンテンツ