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【大場一央の古義解~言葉で紡ぐ日本】(34)新井白石 皇統断絶の危機救い「象徴天皇」を先取り

 御裳濯川(みもすそがわ)の流、もとよりたえさせ給ふまじき御事なれば、然るべき天の御はからひなるべし『読史余論』

 今から242年前、わが国は皇統断絶の危機にあった。後桃園天皇が崩御した際、直系男子が絶えたのだ。この時は傍系の閑院宮家から兼仁王が迎えられ、光格天皇となる。この血統は、今上天皇まで続く。

 当時の皇位継承問題がスムーズに進んだのは、危機を予測し、閑院宮家の創設を提言し、その実現に尽力していた朱子学者、新井白石(1657~1725年)の手腕によるものだ。

 独学で朱子学を修めた白石は30歳で、朱子学者、木下順庵に入門した。順庵の学問は穏健な朱子学を基調としており、三宅観瀾(かんらん)ら「木門十哲」と呼ばれる高名な儒学者を輩出した。白石は木門十哲の筆頭格として数えられ、順庵には半ば学友のように扱われたが、なかなか仕官できなかった。あるとき加賀藩から誘いが来たものの、加賀出身の学友から「母の孝養のために行かせてくれないか」と頼まれると一言で承知。淡々と浪人暮らしを続けた。順庵の紹介で甲府藩に仕えたのが37歳。かなりの遅咲きである。しかも藩主、徳川綱豊は3代将軍、家光の孫でありながら、幕府から嫌われており、事実上キャリアの終わりを意味した就職だった。

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