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【大場一央の古義解~言葉で紡ぐ日本】三宅観瀾 天皇に強烈な反省迫る「尊皇家」

 正統は義にありて器にあらず『中興鑑言』

 儒学者、栗山潜鋒の推薦で水戸藩の修史事業に参画した三宅観瀾(みあけ・かんらん)=1674~1718=は、父が京(現・京都府)の儒学者、三宅道悦、兄も大阪の有力町人が創設した学問所、懐徳堂学主(学長)の三宅石庵と学者一家に育った。潜鋒と同じく京にルーツを持つ儒者で、尊皇思想を水戸に持ち込んだとされるが、そう単純な話ではない。

 観瀾は、山崎闇斎門下で「崎門三傑」とされた朱子学者、浅見絅斎(けいさい)に学んだ。

 「理」の絶対性を主張した絅斎は、日常生活における人倫にこそ道があると説いて「理」の閉鎖性を批判した伊藤仁斎を「ボケ老人のたわごと」と罵倒し、仁斎の著作を論難する書物を書いて粘着質に攻撃した。

 「理」への絶対的な傾斜に比例して、「忠」や「節義」に対する絶対視も尋常ではなく、中国史上で国家に対する忠誠や節義を貫いて死んでいった8人の政治家、学者をとりあげた『靖献遺言(せいけんいげん)』という書物も著している。この書は、後に幕末の志士たちの愛読書となり、尊皇の大義を遮二無二貫いて死ぬことが美しいというテーゼをばらまいた。さらに、神道は合理性に乏しいとしてこれを排斥し、神道と皇室を切り離して天皇絶対の主張を展開した。

 興味深いのは、神道を皇室と切り離すことに何の違和感も持っていないことである。今日の保守派でも皇室尊崇と神道とを切り離すことがあるが、それが心情的にどうして成立するのかは意外に分かっていない。絅斎は町人学者でありながら「赤心報国」と刻んだ長刀を差して歩いていた。いわば古典的右翼のイメージを地で行く人物である。このような師を持った観瀾も、同様の人物だというレッテルがまとわりつくのはやむなしと言える。

 しかし、観瀾の実像は、絅斎とは大きく異なる。

 『大日本史』の編纂では、「将軍伝」を本紀(統治者の伝)並に扱うこと、つまり天皇と将軍とを統治者として同格に扱うことを提言した。

 また、潜鋒との間で「天皇の正統性」は何によって決まるかと論争した際、「三種の神器」の保有に根拠があるとした栗山に対し、観瀾は「義」がなければ正統ではないと反論した。

 ここでの「義」とは、あらゆる制度をシンプルに視覚化し、立場に応じてどういう仕事をし、どういう成果を期待するのかはっきりさせることである。

 太平の世では得てして地位や職務があいまいになり、そこに不公平や私情がからんで、社会が閉塞状況に陥る。何が問題かも分からなくなって、結果的に社会の活力が低下し、生産性が落ちることで生活が成り立たなくなる。そうすると自ずから反乱や革命が望まれるようになって、国家は崩壊する。それは良いも悪いもない厳粛な力の論理であり、ちょうどダムにたまった水が蟻の一穴で崩壊するのと同じく、誰にも止めることはできない。

 観瀾はこれを「勢」と呼び、後醍醐天皇による「建武の新政」も、結局は天皇が率先して私情や不公平で「義」を乱し、腐敗した公家社会が武家に取って代わられる「勢」を止められずに失敗したと断じる。

 建国の理念を振り返り、「義」を定めて天皇自らが率先して役割になりきることで「勢」を使いこなし、そこではじめて神器は現実的な力と神聖性を恢復(かいふく)する。それを端的に言い表したのが、冒頭に引いた「正統は義にあって器にない」との言葉である。

 観瀾は、将軍家に「義」があることで「勢」を得て天下をとったという論理から、「将軍伝」を本紀並に扱う。一方で天皇が「義」を行うことで「勢」を得る可能性がまだ残っていることを示唆する。「義」によって皇室と神道の神聖性の回復を目指す観瀾は、紛れもなく尊皇家だった。

 ちなみに、『中興鑑言』を愛読し、殉死の直前、昭和天皇に献上したのが乃木希典である。今、乃木が不当に低く評価されていることと、観瀾の思想が浅見絅斎に比べて注目されないことは、恐らく無関係ではあるまい。

 ところで“愛国”を唱える保守派諸氏は、天皇に強烈な反省を迫る観瀾の思想をどう評価するだろうか。非常に興味深い。

【プロフィル】おおば・かずお 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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