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【大場一央の古義解】保科正之 会津に王道政治実現

 惣(すべ)て官庫の貯蓄と云ふものは…士民を安堵せしむる為めにして、国家の大慶とするところなり 『千載之松(せんざいのまつ)』

 三代将軍徳川家光の死後、幼君家綱の後見役として幕政を指導した保科正之(1611~1673)は、江戸時代初期を代表する名君として知られる。2代将軍秀忠の庶子として生まれたことを秘密とされ、7歳で高遠藩(現長野県)3万石の保科家に養子に出された正之であったが、後に弟の存在を知った兄の家光にことのほかかわいがられ、26歳で山形藩(現山形県)20万石の藩主となり、33歳で会津藩(現福島県)23万石に転封となった。

 藩主としての正之は家臣団の統制を推進し、強力な指導体制を確立した。指揮系統が整うと、続いて数年間の収穫高を平均して税率を算出する定免法の施行、8品目からなる特産物の保護育成、流通インフラとなる宿場や駅伝の整備などで藩経済の基盤を整備する。

 こうして民が長いスパンで経済的安定を確信できるようにした上で、さらに正之は、間引きの禁止、人身売買の禁止、孝行息子や良妻賢母の顕彰を行って、藩内の気風を清潔にするよう教化していった。

 正之の政治において特筆すべきは「社倉(しゃそう)法」の実施である。社倉法とは、郷村各地に設置された倉に米穀を貯蔵しておき、飢饉や災害が起きた際に低利で貸し付けするというものである。

 当時、飢饉(ききん)などが起きる度に収入を断たれた農民が高利貸に借り入れしては破産し、家屋敷を失って奴隷化するということが常態化していた。これを藩による低利貸し付けで抑制し、飢饉や災害が長期化した場合に利息払いや税の徴収を延期することで、徹底した民の生活保護を図るのである。

 さらに利息を2割に設定し、その利息を社倉の拡充に割り当てることで、社会保障基盤を盤石にし、ひいては民の勤労が社会の安定に寄与しているという「働きがい」を与えるという、経済政策と国民教化を一体化させた政策である。

 これによって7千俵の備蓄からはじまった会津藩の社倉は領内23カ所、計5万俵にまで増え、飢饉時に隣藩に支援できるまで充足した。さらに正之はその財源を用いて、老齢者に対する無償給付を実施。国民年金制度のひな型を発明している。

 会津藩における内政で力をつけた正之は、幕政においてもこれを応用し、江戸の幹線道路、芝・浅草の新堀や神田川の拡張、玉川上水の開削、上野広小路や両国橋の設置などを行い、首都機能を備えた街へと変貌させる。

 そして末期養子や殉死を禁止し、大名家を取り締まることから育てることへとかじを切り替えた。明暦の大火によって江戸城が焼け落ちた際、天守の再建を却下したのも正之であるが、その理由は、幕府を守るのは天守ではなく仁政であるというのが論拠である。

 冒頭の台詞(せりふ)「すべて政府の備蓄というものは…国民を安心させるためにあるのであって、それを必要な時に国民に放出できるのは国家にとってこれほど喜ばしいことはない」とは、この時に発せられたものである。

 こうした正之のゆるぎなく明晰な政治は、朱子学の徹底した実践である。社倉法は実は朱子が研究して開発した政策をそのまま用いている。国民が長いスパンで生活設計できる経済体制を作った上で、教育により風俗を清潔にし、人倫の道徳的結びつきによって地域社会を強固にするという思想こそ、『孟子』にはじまり朱子によって宣揚された「王道政治」そのものであった。

 正之は、朱子がなしえなかった国家規模での王道政治実践を推進し、幕府260年の基礎を築いたのである。これを永続的にする仕上げが藩校日新館における朱子学教育であり、また自身も朱子学者山崎闇斎を招いて研究を進め、朱子学者としての著作を残した。

 四書五経の一つ『大学』には、「一人(いちにん)国を定む」とあるが、正しく正之はそれを体現し、道徳と政治とを一体化させた人であった。

 こうして会津藩は幕末の若松城落城、白虎隊自刃のその日に至るまで思想を貫き、目先の政局や利害にふりまわされて迷走しがちな日本の政治体質に対し、一貫した思想の価値を示し続けることとなる。

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【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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