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【大場一央の古義解-言葉で紡ぐ日本-】中江藤樹 言論でなく実践で社会を変革

 われ人の身のうちに、至徳(しとく)要道(ようどう)といへる天下無双の霊宝あり 『翁問答(おきなもんどう)』

 出身地の近江国(現滋賀県)小川村で私塾を開き、後世「近江聖人」と呼ばれた中江藤樹(1608~1648)は、日本人が抱く「聖人君子」のイメージを体現した人だといえる。

 9歳で祖父の養子となって武士になり、伯耆国(現鳥取県)や伊予国(現愛媛県)に移り住む。11歳で朱子学に出合ってからはストイックに読書修養に励み、己にも他人にも厳格になる。15歳で祖父を、18歳で父を亡くした藤樹は誰よりも武士らしくあろうと深夜に鎧(よろい)をまとって山野を駆け回る訓練によって己を追い込み、肉体を鍛えあげた。

 独り身となった母を案じ、25歳の時、故郷に迎えに行くが、息子の妨げになることを嫌がった母に拒否され、追い返される。母を思う一念を捨てきれなかった藤樹は、神経性の喘息(ぜんそく)になるまで精神を病んだ。27歳で士分を捨て帰郷。以後、儒者として生きることとなった。

 儒者となってからの藤樹は刀を売ってお金に換え、それで買った酒を売って生計を立てた。といっても、酒甕(さかがめ)を門前に並べ、勝手に飲んだ分を料金箱に払うという鷹揚(おうよう)な商売である。また、小川村の人々と気さくにつきあい、利害に囚(とら)われず、たちまち村人に溶け込んで尊崇を集めるようになる。この頃、藤樹は朱子学に加え、陽明学も学ぶようになっていた。

 やがて藤樹の家に人々が集まるようになり、身分を問わない私塾「藤樹書院」が開かれた。そこに集まった人々は藤樹の話に耳を傾け、日常生活で儒教を実践するようになった。門人には熊沢蕃山(ばんざん)や淵岡山(ふちこうざん)といった陽明学者もいた。人々は藤樹に感化され、勤勉で温和な村として有名になり、それから二百年後に小川村を訪れた大塩平八郎は、いまだに潔斎の上、紋付をまとって藤樹の墓に参拝する村人を見て驚嘆している。

 藤樹の感化をよく示す逸話がある。ある日、客が落とした二百両を見つけた馬子が、来た道を戻って宿にいた客にそれを返した。お金の無事を確認した客はお礼を渡そうした。しかし馬子は結局、二百文だけ受け取って、それを酒代にしてその場にいた人にふるまった。客がどうしてそんなに無欲なのかと聞くと「小川村に中江藤樹先生という方がいるのですが、先生は、親孝行をすること、人の物を盗まず、傷つけず、困っていれば助けるようにという話を、実に上手に話されるので、実践したまでです」と言った。藤樹の説く儒教とは、正しく「生活」そのものであった。

 ここで勘違いしてはいけないのは「生活」に密着した儒教が、学術的、哲学的な儒教に劣っているとか、藤樹がレベルを落として教育したという話ではないことである。むしろ学術的、哲学的な儒教こそ、理屈だけでは割り切れない複雑な人生に対応できない空論だと考え、あえて「生活」における表情やふるまい、心がけだけで勝負した所に、藤樹の真骨頂がある。

 藤樹は「孝」を儒教の本質だと考えた。「孝」とは、単なる親孝行だけを指すのではない。親が子を愛し育む心は、天地が万物を活(い)かそうとする心と同じ。つまり親だから有難(ありがた)いのではなく、「活かす心」が有難いのだ。だからこそ、自分もそうした心になって、人々を活かそうとつとめることで、「活かす心」に報いる。

 そういう人々が増えれば優しく温かい世の中ができる。

 「私の体には孝という最高の徳がある」という冒頭の言葉は、お互いを活かす人倫社会を造れるのは誰でもなく自分の心であり、自分を活かすも殺すも自分の責任だという宣言である。優しさとは強さであり、自分を取り巻く人倫の善(よ)し悪(あ)しが、そのまま自分という人間の善し悪し、社会の善し悪しを映している。藤樹はそこで勝負したからこそ、馬子の心にストレートに突き刺さり、彼の人生を変えたのである。社会は言論では変わらない。人倫こそが己に与えられた実践場なのである。

                  ◇

【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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