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【大場一央の古義解 言葉で紡ぐ日本】林羅山 「誠実さ」を希求 人倫の安定、社会の発展求める

 身に誠あるの楽しみ、あに孝悌忠信(こうていちゅうしん)の外(ほか)にあらんや 『吟風弄月(ぎんぷうろうげつ)論』

 徳川幕府に仕え、政治顧問として活躍した朱子学者、林羅山(1583~1657)は京都に生まれ、13歳から京都五山の1つ、建仁寺(けんにんじ)で学問を修めた。ただ、僧侶となることを頑なに拒み、寺を脱出。儒学の研究を進めた。22歳の時、同じく五山の1つ、相国寺(しょうこくじ)出身で、源頼朝も愛読した帝王学の書『貞観政要』を徳川家康に講義した朱子学の大家、藤原惺窩(せいか)に学識を認められる。惺窩から家康に推挙された羅山はブレーンの1人として近侍を許される。当時は儒者という身分が認められなかったため、やむを得ず「道春」と名乗り、僧形で勤めた。

 羅山は、豊臣家滅亡の引き金となる「方広寺鐘銘事件」に関与したり、「放伐(革命)否定論」を家康に論じる傍ら、儒学に限らない漢籍の収集、整理、紹介に精力を注いだ。結果的に、それは武家政権の政治、経済、文化的教養を引き上げることにつながる。

 家康、秀忠、家光、家綱と4人の将軍に仕えた羅山は、『武家諸法度』による法制整備や、諸大名の家格を規定した『寛永諸家系図伝』や、日本通史『本朝通鑑』の編纂に加え、諸大名に対する政治教育や、オランダ、シャム(現タイ)、朝鮮との外交も担当した。

 羅山の思想上の特徴は役割分担を明確にした社会、身分制度を重視したことだ。朱子学を基調にしつつも、独自のものが多い。羅山は観念的に議論されることが多い「理」という概念を、「人倫における身分秩序」と位置づけ、身分に応じて決められた振る舞いや仕事を忠実にこなすことを要求した。また、そうした秩序になりきることではじめて人と人との間に信頼が生まれ、誠実さが互いに伝わっていくと説いた。

 幕府以上に、役割分担を明確にした社会秩序を守る意志が強かったことは、天皇の勅許と幕府の法度の優劣が争われた「紫衣(しえ)事件」への姿勢などに見て取れる。羅山は幕府の後水尾天皇への強硬姿勢を批判し、後世に「大政委任論」が生じる余地を残した。

 50歳で上野忍岡に土地を与えらた羅山は、当地に私塾と孔子を祀る聖堂を建造した。「倫理の外、何ぞ別に道あらんや」と説いた羅山は、神道と儒学との一致も説いた。儒学が説く倫理はもともと日本固有であるとする「理当心地神道(りとうしんちしんとう)」である。日本は元来、人倫の安定に社会の発展を求めていく国であり、人倫から離れて個人の自由や救済を求め身勝手な個人の罪業を許す方便として来世を説く仏教は日本を混乱に陥れる邪教と激しく排斥した。幕府は後に林家当主を大学頭に任じ、儒学、中でも朱子学を正統教学と位置付けた。私塾は神田湯島に移設、昌平坂学問所となる。林家の学統は魔術色の濃い仏教を政治から切り離した。

 ただ、秩序や役割分担を重視する結果、社会から決められた振る舞いや仕事を墨守することは、ともすれば息苦さをもたらしがちだ。陽明学者の中江藤樹や、古義学者、伊藤仁斎ら後世の学者は、そんな論法で羅山の学を批判した。それでも弱肉強食の論理が当たり前だった戦国の気風を変えるために、上に立つ者に箍(たが)をはめた羅山思想の効果を見逃してはならない。

 社会の安定こそ、長期的発展を約束する。高度経済成長を達成した昭和も「終身雇用・年功序列」に支えられた安定社会だった。発展を阻害する孤独感や将来への不安は親子、兄弟、職場、夫婦、友人との人間関係で徹底的に役割になりきることで解消される。「この人なら安心できる」という相互の信頼が、個々人の心の平安につながり、円満な家庭、社会をもたらし、結果として国家は治まり、天下は平らかとなる。

 誠実さを認められることが人間にとって一番の楽しみであり、それには立場に応じた正しい心がけを積み重ねる以外にない-。

 冒頭に引いたこの言葉こそ、羅山の政治思想であり、人生観だった。

                  ◇

【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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