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【時代の変革者 渋沢栄一】(下)分析力と対応力で荒波乗り越え 「役人との事件」その後の生き方を左右 埼玉

 渋沢栄一が17歳のとき、中の家(なかんち)は商売も順調で、藍玉作りや養蚕のほかにも雑貨屋や質屋も手がけるようになっていた。

 このとき、領主の岡部藩安部(あんべ)摂津守は血洗島(ちあらいじま)村へ御用金を命じ、栄一の家でも500両を用意しなければならなくなった。栄一は「話を聞いてきなさい」という父の言い付けで、代理として陣屋に向かった。

 栄一は御用金の用意には即答できない旨を話した。すると、代官はあざ笑うように、「17歳にもなれば遊蕩(ゆうとう)などもする年だ。500両くらいは貴様の一存で承知できるだろう」と言い放った。押し問答の末、栄一は要求に応じなかった。

 しかし、父は「それが泣く子と地頭には勝てぬ」ということだと言い、翌日に陣屋に行ってあっさりと500両を渡してきた。

 栄一は憤慨した。

 「陣屋の役人の態度はなんだ。いかに身分が違うとはいえ、われわれが頼まれる側なのに、叱りつけ、嘲弄(ちょうろう)するなどけしからん態度だ」「元来、人間は賢愚(けんぐ)の差別によって、尊卑の差別も生じるはずだ」。17歳のときのこの事件が、その後の生き方を左右することになる。

 22歳になると、栄一は江戸に2カ月ほど遊学する。いとこの尾高惇忠らに後れをとりたくなかったためだ。2年後、憂国の志士を気取っていた栄一は再び江戸への遊学を決行した。

 天下国家を論じ、幕府の暴政を罵倒する栄一は攘夷の思想一筋。幕府を速やかに倒し、王道をもって天下を治めなければならないという決心で、尾高惇忠と、同じくいとこの渋沢喜作らとある計画を立てた。

 それが「高崎城乗っ取りと横浜外国人居留地襲撃」だ。決行に際し、京都にいた惇忠の弟、長七郎を呼び戻して評議を行った。しかし、計画に賛同してくれると考えていた栄一らの意に反し、長七郎は大反対。長七郎は「栄一を殺してでも計画は食い止める」とまで言い出し、逆に栄一らは「貴兄を刺し殺しても、この計画は必ず決行する」と詰め寄る事態となった。徹夜で激論が交わされ、その結果、長七郎の意見に従うことで落ち着いた。

 しかし、治安維持を担う関八州取締役が計画を聞きつけたとの話が耳に入った。栄一は捕縛を逃れるため、喜作とともに伊勢参りに行くと言って故郷を後にした。栄一らはかねてから交流があった一橋家用人の平岡円四郎の計らいもあり、同家の人間として動き、無事、京都に落ち延びた。

 その後、平岡から呼び出しがある。「幕府から一橋家に栄一らの身分について照会状が届いた」というものだった。平岡が言うには、2人が助かるには「志を変えて一橋家の家来になるしかない」。正式に家来にならなければ幕府に捕まる。進退はきわまっている。信条を曲げ、家来になる苦渋の決断を下した。

 栄一はその後、幕末の混乱から明治維新へと目まぐるしく変わる時代の大きな流れに翻弄されることになる。しかし持ち前の「冷静な現状分析力」と「柔軟な環境対応力」で荒波を乗り越え、時代の変革者となっていく。変化が激しい現代社会で、コロナ禍という新たな危機に直面したわれわれにとって、渋沢栄一から学ぶことは多い。(ぶぎん地域経済研究所取締役研究主幹 松本博之)

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