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【時代の変革者 渋沢栄一】(中)読書三昧一転、家業手伝い頭角 “人生の師”尾高惇忠から高度な教育

 婿養子として中の家(なかんち)に入った渋沢栄一の父、市郎右衛門は一代で家運再興を成した。血洗島(ちあらいじま)村周辺では「武州藍」として藍の葉が盛んに栽培されていて、市郎右衛門の藍玉事業の成功によって、中の家は村の中で東の家に次ぐ2番目の資産家となっていた。

 市郎右衛門は名主見習いにまで出世した。当時の中の家の収入はどのくらいだったのか。藍玉製造・販売だけで、売り上げは年間1万両(現在の価値で約10億円)に上ったとされる。利益は年間1500両から2500両。桁違いに裕福な農家だったことがわかる。

 14歳くらいまで、栄一はほとんど家業を手伝わずに毎日を過ごしていた。無類の書物好きで、片時も本を手放さない生活だった。

 しかし家業に厳格な市郎右衛門がいよいよ動いた。「学者になるわけではないのだから、昼夜の読書三昧(ざんまい)は困る。農業、商売にも努力をしてくれないと家が成り立たない」とぴしゃり。「今後は農業、商売に心を入れなさい」と言われ、栄一はやっと家業を手伝い始めることになる。

 家業との関わりについては14歳の時に取引先を回ったときの話が残っている。

 この年、栄一は祖父と一緒に染料になる藍の買い付けに行くことになった。買い付けの2日目、祖父からもらった金子(きんす)を胴巻きに入れ、一人で藍を買いにきたと言って農家を回ったが、最初は「まだ子供じゃないか」と相手にしてもらえなかった。

 それでも栄一は「これは肥料が足りなそうだ」「乾燥が十分できていない」などと父をまねて取引先を回り、最後は二十数軒から藍を買い入れた。

 結局、その年の藍のほとんどは栄一が仕入れた。その後、栄一は父の意に従って、もっぱら藍玉など家業に精を出した。

 栄一は24歳で血洗島村を離れるまで家業に汗を流したが、一方でいとこの尾高惇忠らと尊王攘夷(倒幕)運動に走った。

 この尾高惇忠は栄一の幼少期から青年期に最も影響を与えた“人生の師”ともいえる人物だ。栄一より10歳上で、私塾を開き学問を教えていた。栄一も7、8歳になると惇忠に学ぶようになった。惇忠の家は栄一の家から7、8町(1町=約109メートル)離れた下手計村にあり、栄一はそこまで歩いて通い、3、4時間ほど勉学してから帰るというのが日課となった。

 栄一が惇忠から受けた教育は内容が非常に高度だった。栄一が農民だったことを考えると、当時の常識からは全く外れていたといってもよかった。

 一方で惇忠は読書を重んじたが、一字一句を暗記させるのではなく、多くの書物を通読させて、自然と読書力を高めようとした。読みやすいものや興味があるものから入るのが一番良いとして、書物に触れやすく感じてもらうようにもした。

 ここでの勉強や惇忠、周囲の人々との交流が栄一の人生を変えていくことになる。栄一は18歳の時に最初の結婚をするが、その相手は惇忠の妹、千代だった。 (ぶぎん地域経済研究所取締役研究主幹 松本博之)

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