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【時代の変革者 渋沢栄一】(上)教育熱心な父と慈愛に富む母 勉強や稽古事に明け暮れた少年時代

 「近代日本経済の父」といわれる渋沢栄一は、言わずと知れた埼玉が誇る偉人だ。栄一は天保11(1840)年、武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま)村という小村で生を受けた。この村は現在の深谷市内にあり、JR高崎線深谷駅から北西に5キロほどの場所だったという。

 「血洗島」の名前については諸説あるが、次のように説明されることが多い。

 《赤城の山霊が他の山霊と闘って片腕を挫(くじ)かれ、その傷口を洗った場所》

 《この地に流れていた烏川と利根川の氾濫によって何回も土地が洗われた》

 「新編武蔵風土記稿」によると、血洗島村は天正年間(1573~92年)に開かれ、当初は5軒のみだったが、江戸時代後期には50軒ほどに達している。渋沢家は血洗島村の成立期からあって、栄一が生まれたころは十数軒あったという。

 栄一の家は「中の家(なかんち)」と呼ばれ、一群の渋沢家の宗家だった。しかし、栄一の祖父のころは零落して田畑1町歩前後の小地主に過ぎず、跡取りの男子もなくて家運は風前の灯だった。

 そこに救世主とばかりに来たのが「東の家(ひがしんち)」2代目当主・渋沢宗助の三男、元助だった。この元助こそ栄一の父、市郎右衛門(改名)だ。市郎右衛門の実家も農家だったが、もとは武家になって身を立てようとした人物で、神道無念流の剣法に練達していた。

 しかし、婿養子になってからは武士への志はすっぱりと捨て、質素倹約を旨として家業にひたすら励むというしっかり者だった。学問も修得しており、時代の流れにも敏感で自分なりの見識を持っていた。「百姓に学問は必要がない」という常識がまかり通っていた時代に、栄一ら子供の教育に熱心だった。

 母、えいは家付きの娘だったが、偉ぶらないで慈愛に富んでいた。えいについては、自らのことには全く欲がなく、施与(せよ)が唯一の楽しみで、情が深く、窮乏している人を見ると涙が止まらなくなってしまうと描写する資料もある。

 栄一はこの市郎右衛門とえいの三男坊として生まれた。夫婦は子供を8人もうけたが、栄一のほか5歳上の姉、なかと12歳下の妹、ていが残り、ほかは早世。結果、栄一は長男として育てられた。

 栄一は幼いころから利発で記憶力も抜群によく、“魔”がつくほどの読書好きだった。一方で、剣術をたしなむ活発な少年でもあった。やや強情なところがあったのはご愛嬌(あいきょう)か。とにかく恵まれた環境で育ち、14、15歳までは家業を手伝うことなく、勉強や稽古事に明け暮れる日々を送った。

                  ◇

 今年は渋沢栄一の生誕180周年という節目の年に当たる。栄一は生涯で設立や経営に関わった企業が500社、携わった教育・社会事業は600事業に上るといわれる。

 明治維新以降の経済の近代化は、渋沢なしでは実現できなかった。生まれてから青年期までを過ごし、その後の人生を方向づけた血洗島村での暮らしぶりを紹介する。(ぶぎん地域経済研究所取締役研究主幹 松本博之)

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