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【大場一央の古義解-言葉で紡ぐ日本】(24)藤原惺窩 人倫を再構築、「戦国」への仇討ち果たす

 明徳とは人倫のことなり 『大学逐鹿評(ちくろくひょう)』

 日本思想史上、「近世」を創始したといえる藤原惺窩(せいか)(1561~1619)は『新古今和歌集』『百人一首』の撰者(せんじゃ)である歌人、藤原定家の子孫である。

 播磨国(現兵庫県)に生まれ、幼くして京都五山第2位の相国寺で僧侶となった。18歳の時、戦乱で父と兄を失ったが、惺窩は無事で、修行僧のリーダーである首座(しゅそ)になるまで研鑽(けんさん)する傍ら、儒教を研究。豊臣秀吉の命で朝鮮国使と会談し、徳川家康に招聘(しょうへい)され、源頼朝も愛読した帝王学の書『貞観政要(じょうがんせいよう)』を講義した。儒教を本格的に学ぶべく中国に渡ろうとするが失敗、鬼界ケ島(現鹿児島県)に漂着した。

 文禄、慶長の役の時には捕虜となった朝鮮の儒学者、姜●(きょうこう)の知遇を得て親しく交わる。好学の大名であった赤松広通が庇護(ひご)者となったが、広通が関ケ原の戦いで切腹。朝鮮の儒学者に浄写させた四書五経に惺窩が訓点を施した出版事業を進めていたが断絶した。

 再び家康に招かれた惺窩は、相国寺の住職で、家康のブレーンの1人だった西笑承兌(さいしょうじょうたい)と論争。儒服で現れた惺窩は儒教の正当性を論じ、仏教からの独立を宣言する。惺窩の思想を家康が高く評価したことで、浅野家、細川家などの諸大名が入門し、林羅山、松永尺五、石川丈山、吉田素菴ら優れた弟子を輩出した。かくて惺窩の学問は江戸と京都にまたがって広まる。徳川260年の治世は儒教に支えられたが、その基礎を築いたのは惺窩である。

 もともと僧侶の惺窩がなぜ儒学に惹(ひ)かれたのか。鍵は父と兄の死にあるといわれる。弱肉強食の戦国の世は、力のある者には自由な世の中だったが、一方で人を出し抜き、利益を独占することだけが正義とされる世の中で、理不尽に虐げられ、殺される人々も多くいた。恐るべきは、そうした弱い人々が倒れ、奪われ、死にゆく様を見ても誰もが仕方ないと考え、悲しむことも助けることもせず通り過ぎる道義的不感症が蔓延(まんえん)していたことだ。仏教にはこの現実を変革する意志がないどころか、出家という免罪符を与えていた。

 一方、惺窩が学んだ朱子学も自分の道徳的な心である「明徳」を極め、自分さえ道徳的であればよいと考えて引きこもり、変革志向に欠けていた。これに飽き足らなかった惺窩は、朱子学を批判した陽明学をも受容し、双方を折衷して人倫の再構築を目指した。

 人倫とは人間関係である。親子、兄弟、仕事関係、夫婦など、人は誰かと関わりながら生きている。この関係を利害で作り上げると、甘えや金銭関係などでもめ始め相互に攻撃しあう。しかし親は親らしく、子は子らしく、「それぞれの立場に忠実に生きるべきだ」とするとどうか。自分の立場に忠実に生き、役割分担しながら家庭や社会を作ると相互に安心感や信頼が生じ、社会は安定する。そうした社会を目指す意志を持ち、心を強くすることが修養である。

 「明徳とは人倫である」とは「良い家庭、良い社会を作れたかという結果だけが、自分の心が正しいかの証である」という言葉である。この思想は『本多平八郎聞書』『本佐録』を通じて幕府の意志となる。惺窩は学問によって父と兄を殺した戦国の世に仇討(あだう)ちを果たしたのだ。

                  ◇

【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

●=さんずいに亢

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