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【菅義偉の原点「影の横浜市長」と呼ばれて】(中)人と組織動かす掌握力で真価を発揮

 ■眼前に空席…繰り返す成功の歴史 市議でも群抜く存在

 安倍晋三が持病の再発により突如、首相の座を明け渡すことを表明した際、菅義偉の脳裏には、憧れだった横浜市議への道が突如、開けた過去の情景が想起されたに違いない。昭和62年4月の市議選を前に、自民党内では現職市議の引退と後継者の急死という想定外の事態が生じ、紆余(うよ)曲折を経て、衆院議員、小此木彦三郎の秘書だった菅が市議の座を手にすることとなったからだ。

 意中のポジションが空くまで雌伏を続け、追い風が吹いたとみるや一気に攻勢をかけて手中に収める。菅は過去の成功体験をなぞる形で、最高のポストに就く夢を実現させた。

 ◆猛反対押しのけ

 三十数年前の当時の状況を知る関係者らによると、菅の市議選出馬の経緯はこうだ。横浜市西区(定数2)の議席には、かつて市議会議長も務めた自民の重鎮、鈴木喜一がいた。70代後半だった鈴木は、息子を後継に立てようと考えていたが、息子は不幸にも急死してしまう。周囲の応援も受け、その空席を目指したのが菅だった。

 ただ、菅にとって初となる選挙は、一筋縄ではいかなかった。いったんは引退で話が進められていた鈴木が、その後翻意し、同区からの出馬を公言したのだ。菅は党をはじめとする周囲からの猛反対を受けることとなった。

 結果的には、菅の勢いの前に鈴木が引き下がり、菅は党の公認を得て当選を勝ち取ることになるのだが、当初は無所属での出馬を覚悟するほどにまで追いつめられるなど、まさに「地盤・看板・カバンなし」の苦境。菅は後年、「極めて厳しい状況の中の市議選だった」と振り返っている。

 支持を得るための菅の行動は徹底していた。後に秘書を務めた現職市議の清水富雄は、それを象徴するエピソードとして箱根駅伝の思い出を挙げる。「観衆であふれる国道1号の沿道にのぼりを持っていき、懸命に名前を売っていた」といい、「今ならひんしゅくを買うかもしれませんが。武勇伝ですね」と笑う。

 ◆物おじはせず

 時になりふり構わぬ行動は、当選への執念に突き動かされていたのかもしれない。初の市議選で菅が獲得したのは8813票。次点と655票差のぎりぎりの2位当選だった。

 菅の物おじしない姿勢は、当時の菅を知る者の間で、いまも語り草だ。「『長老』と呼ばれる党内の権力者が、物事を取り仕切っていた時代。ぼくらは誰も長老に口をきけなかった。怖かったから」。そう振り返るのは、いまも現役市議の田野井一雄だ。

 菅の1期先輩にあたる田野井は、市議団会議に臨む前、菅に「発言は控えておけ」とくぎを刺す。しかし、いざ会議が始まると、菅は長老に対していきなり「それはおかしいじゃないですか」と言って手を挙げ、「私たちも市民の負託を受けて議員になったんだから、ちゃんと話を聞いてください」などと意見。周囲を凍り付かせたという。

 案の定、長老は「生意気なことを言うな」と激怒。ただ、菅はそれでも引き下がらず、最後には長老も「分かった」と言って折れたという。田野井は「どんな状況でも堂々としている。ものすごい胆力の持ち主だ」と回顧している。

 ◆思うがままに

 市議時代、菅はめざましい躍進を遂げる。当時の市長は高秀秀信。菅は小此木や横浜港港運事業者の実力者、藤木幸夫らとともに市長選で高秀を擁立した経緯もあり、市長当選後も、高秀の業務を手となり足となってサポートする。高秀の厚い信頼を得たことから、当選2期目ながら、市議の中でも群を抜く存在となっていった。

 そこでは菅の人心と組織掌握力の真価が発揮された。菅は市幹部らと会合の場を定期的に設けることで情報収集の場を構築。人事権を事実上握ることで人を従わせ、組織を思うがままに操っていく。そうした辣腕(らつわん)ぶりにより、菅はいつしか「影の市長」と呼ばれ、恐れられるようになった。

 そんな菅について田野井は「国ともつながっているから、行政側の要望にはなんでも応えられた。まさに役人を使いこなしているという感じだった」と驚きを口にした。=敬称略

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