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【大場一央の古義解-言葉で紡ぐ日本-】徳川家康 江戸で日本の近世が始まった

 天地を尽(つく)しても、武士の有らんかぎりはこの道理すたるまじ

  『本多平八郎聞書』

 豊臣氏の後、天下を治めた徳川家康(1542~1616)は、日本の近世を最終的に方向付けた天下人である。

 三河国(現愛知県)岡崎に生まれ、幼少期は今川家への人質として駿河(現静岡県)で過ごす。18歳で独立するも、翌年には家中を二分する三河一向一揆が発生して多くの家臣と対立。苦闘の末、本願寺派を押さえ込み、三河を平定した。遠州(現静岡県)浜松城に移ったが、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗北。武田家の圧迫をしのぐ日々が続く。その間には織田信長の命で、嫡子信康を切腹させる悲劇も起こる。

 長篠の戦いと、その後の甲州征伐でようやく武田家は滅びたが、直後の本能寺の変では、明智光秀から追われ、命からがら三河へ脱出。甲斐(現山梨県)、信濃(現長野県)両国を平定して臨んだ小牧長久手の戦いで豊臣秀吉を始終圧倒したのにもかかわらず、織田信雄の背信的講和によって戦略的な勝利を失い、臣従を余儀なくされる。家臣を豊臣秀吉に引き抜かれたり、関東へ国替えされたりしたうえ、織田信長の娘婿、蒲生氏郷からは「天下取りの器ではない」とまで言われる。

 ただ、58歳、関ヶ原の戦いで勝利し、61歳で征夷大将軍となり、幕府を開く。73歳で大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、江戸幕府による統治体制を完成させる。その翌年、74歳で死去した家康の人生を特徴づけるのは徹底した不遇である。

 家康は個人として優秀であり、勤勉でもあったから、常に着々と力をつけて事業を拡大していく。しかし、軌道に乗ったのを待ち受けるかのように、嫌がらせのような不運が襲ってくる。次第に口数が少なくなり、「何を考えているのか分からない」と言われるようになった。ただ、「律儀者」という評判の通り、与えられた役割に徹して隙がなかった。「狸親父」という評判は、史料によれば、うんでもすんでもなく仕事を黙々とこなし、終わったらつらっとした顔をして引き下がる、付き合いの悪さへの中傷であり、後世のイメージとは異なる。

 そんな家康は、運命を恨むことなく、却って意志の力を増していった。「本当に人を好きになったときに酸いも甘いも味わうように、人を思いやる誠があれば、信用は自然と養われるものだ」とする家康には、不遇に心乱されず、人や物事をまるごと受け止める人としての本当の強さがあった。これを武器に天下をとった家康は、戦の世が終わった武士たちに、自分のような強さを求めていく。

 家康は「天道(てんとう)」によって、人は祖先以来代々お役目を与えられており、それをみんなが受け継いで果たしていくことで、世の中は進歩していくと考えていた。士農工商全ての民は、それぞれの役割を果たしていくのだが、武士だけは戦争がなければ役に立たない。しかも当時の武士は「押し取り御免」の言葉の通り、勝てば略奪でもなんでもして、道義的な責任は問われなかった。

 しかし『孟子』を愛読していた家康は、武士に儒教を学ばせて倫理的な先導者とし、自分の人生を「仁義礼智」で貫く強い国民集団を育てることで、国を造っていこうとした。

 その思いを象徴的に示す言葉が、冒頭に引いた家康が天下人となって後、側近の本多忠勝に残した「世界が滅んだとしても、武士がいる限り、道理が廃れることはない」である。

 上杉謙信によって示された、孤独なリーダーが頑張る中世は終わりを告げ、豊臣秀吉が開いた統一の道に、国民一人一人の倫理的生活によって国を豊かにしていこうとする思想を植え付けた家康が現れたことで、日本の近世がはじまったのである。

                  ◇

【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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