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【大場一央の古義解~言葉で紡ぐ日本】豊臣秀吉 王道歩んだ異端者

 吾(わが)化(か)の及ぶ所は均(ひと)しく一樊(いっぱん)なり。吾樊(はん)之を失(しっ)せば、乃(すなわ)ち復(ま)た之を得ん 『名将言行録』

 立身出世を遂げた人物を「今太閤」と呼ぶように、尾張国(現愛知県)中村の百姓から天下人に上り詰めた豊臣秀吉(1537~1598)は、日本史上まれに見る立志伝中の人として知られる。15歳で家出をして、放浪を重ねて18歳で織田信長に仕える。草履取りから始まり、37歳で城主となる。

 本能寺の変で信長を討った明智光秀と山崎(現京都府)の天王山で決戦に臨んだのは46歳。そこで光秀を破ると、天下人への道をまっしぐらに進む。47歳で賤ヶ岳の戦いを制して織田家中の後継者としての地位を獲得、48歳で小牧長久手の戦いに敗れたものの、外交戦で徳川家康を臣従させることに成功し、49歳で関白に就任。50歳で九州征伐、54歳で小田原征伐。かくて天下に惣無事令(そうぶじれい)が布告され、戦国時代に幕が下ろされることとなった。

 文禄慶長の役など、その後の秀吉の行動は評価が割れる。ただ、秀吉最大の功績は「天下統一」そのものにある。

 平安期以降、貴族が国家と無関係な私有地「荘園」を保有し始めると、寺院や武家などもこれに続いた。商人や職人も「座」と呼ばれる組合を形成して、それぞれが利益を独占した。中世の日本社会は、関所によって交通が遮断され、独自に作られた掟や法律などによって、同じ日本でありながら、ある種の小国家が乱立しているような状態だった。特権の独占と排除が当たり前であり、強固な世襲により、その永続化を図っていた。

 そのような体制下で抑圧され、なじめない人々は各地を流浪し、野盗や流民として空隙を埋めていく。国家による救済は事実上機能しない。『洛中洛外図屏風』に見えるようにカオスの華やかさがあるが、要するに生きるも死ぬも勝手次第であった。

 信長の「楽市楽座」は、織田家の御用商人のシェアを強引に拡大するための方便だったという側面はあるとはいえ、こうした中世型の利権社会を破壊しようとしたものだった。さらに秀吉は「太閤」としての威光の下、全国民に適用される法令で、中世の利権構造を完全に破壊し、日本を共同体として「統一」しようとしたのである。

 秀吉が飼っているツルを誤ってにがしてしまった番人に対し、冒頭の言葉「私の政の届くところなら、どこへ行っても手が届く鳥籠のようなものだ。我が鳥籠の中で失ったなら、また手に入るだろう」と笑って許したのは「統一」への秀吉の考えをよく表している。

 秀吉は豊かで技能に富んだ国民生活こそが自分の豊かさであり、才能だと打ち出し、無制限な公共事業で民をこれでもかと潤した。

 基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化に拘泥し、増税や緊縮財政など民の資産を顧みなければ、そうした政治に倣って、めいめいが利益を囲い込んで自己防衛するようになり、国はバラバラになる。秀吉はその逆を行った。秀吉は天下の物質も人心もまるごと飲み込もうとして、人々は秀吉にのみこまれた。かくて「天下我に反く者あるとも、我に克つ者はなし」と言うに至った。このような治政はかつて孟子が「王道政治」と称賛したものと似通う。

 尾張中村の百姓から太閤まで出世した異端者は、どんな血筋の素晴らしい政治家よりも「王道」を進んだのだ。

                  ◇

【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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