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【大場一央の古義解-言葉で紡ぐ日本】(20)上杉謙信 筋目思想体現した「常勝」軍団

 依怙(えこ)にて弓箭(きゅうせん)を携へず候。只々筋目を以て何方(いずかた)へも合力(ごうりき)致す迄に候 『佐竹義昭宛書状』

 戦国時代最強にして「軍神」と謳(うた)われた上杉謙信(1530~1578)は、元服間もない15歳で自ら兵を指揮して初陣を勝利し、19歳で家督を相続。越後(現新潟県)守護代に就任すると、23~40歳の17年間、相模(現神奈川県)の北条氏と戦った。24~35歳の11年間は甲斐(現山梨県)の武田信玄との5度にわたる「川中島の決戦」を繰り広げた。陸奥(現福島県)の蘆名(あしな)氏、越中(現富山県)の神保氏や一向一揆とも戦った。おおよそ70戦。明確な敗戦は2回と、驚異的な強さを誇った。

 毘沙門天信仰に篤(あつ)かった謙信は「天賜の御旗」と共に「毘」の旗を掲げた。戦機を掴(つか)んだ瞬間、「龍」の軍旗を挙げると上杉軍団が敵を蹂躙(じゅうりん)する。その様は「血は馬蹄に蹴掛(けか)けられて紅葉の雨にそそぐがごとし」と形容される。

 そのような謙信だが、一度として領土拡張のために戦争をすることはなかったと言われる。いずれの戦いも侵略された土地の人々から救援要請を受けたものであり、勝利後はほとんどの土地を持ち主に返還した。

 北条軍の攻撃で陥落間近の関東の城に少数の護衛兵だけを連れ、道服に身を包み槍をさげた謙信が登場。唖然(あぜん)とする北条勢を尻目に堂々と入城し籠城戦を指揮して城を守り抜いた、という伝説じみた逸話も残る。小豪族でいりくみ南北に長い越後では義兄の長尾政景らの謀叛が頻発したが、謙信は全て平定した上でほとんどの帰参を許した。

 24歳と30歳の2回、上洛して後奈良天皇と将軍、足利義輝に拝謁。天皇からは御剣(みつるぎ)と共に「敵を討伐せよ」との勅命を賜った。

 こうした謙信の行動は「義」と賞賛される一方で、天下静謐の願掛けで妻帯せず「生涯不犯」を貫いたことや、27歳で突然高野山に隠遁しようと越後を出奔したことなど不可解とされることも多い。だが、そうした評価は謙信の思想を「義」や仏教信仰など曖昧な言葉で理解しているにすぎない。

 一連の行動を読み解く鍵は冒頭に引いた「筋目」である。謙信は、戦乱の原因は人の身勝手な感情や利権をめぐる対立、浅はかな思慮で、慣例や伝統を破壊することにあると見た。筋目とは人々が役職や規則を守って己を殺すことで、筋目に従えばおのずと世は正される。この点で、謙信は北畠親房の後継者であった。

 言葉に行動が伴わねば、一笑に付される。よって己に勝ち、敵に勝つことによって思想の正しさを証明しようとした。これが謙信の強さの源だった。

 「(儒教の経書『大学』にあるように「理」だけを見つめ)物事にふりまわされねば、心は広く、体はゆったりするのだ」として、己を殺した謙信の戦術眼は冴え渡っていた。戦争だけではない。謙信は室町幕府の将軍権力を否定する分国法や軍団制を採用せず、旧来の体制を維持して戦う道を選んだ。代わりに流通網を整備し、潤沢な資金力を背景に無制限に戦争を続ける経済力も持っていた。

 家臣達は思想を体現した謙信を畏怖し、精強な上杉軍団となった。かくて「依怙贔屓で弓矢はとらぬ。ひたすら筋目によって誰であっても力添えしよう」と言い放つことができたのだ。

 これは非力な理想論と嘲(あざけ)られがちな思想の、不敵な勝利宣言である。

 とはいえ、思想を体現することは孤独な戦いでもあった。独り琵琶を弾きながらの晩酌だけが安らぎであった謙信は「四十九年一睡の夢、一期の栄華、一杯の酒」という辞世通り49歳で脳溢血に斃(たお)れた。

 謙信が不可解と映る世こそ、思想の必要な時代なのである。

                  ◇

【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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