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【大場一央の古義解 言葉で紡ぐ日本】北畠親房 「理屈はいいから役目になりきれ」

  大日本者神国也(おほやまとはかみのくになり) 『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』

 南北朝時代、吉田定房、万里小路(までのこうじ)宣房(のぶふさ)とともに「後の三房(さんぼう)」と呼ばれた北畠親房(きたばたけちかふさ)(1293~1354)は、南朝の重臣として後醍醐天皇を支えた。建武の新政下では、長男、顕家(あきいえ)とともに義良(よしなが)親王=後の後村上天皇=を奉じて陸奥国(東北地方)へ下向した。

 ただ、新政は後醍醐天皇の理想とは逆に、大混乱をもたらした。政争の挙句、新政の立役者の1人で、鎌倉を本拠とした足利尊氏が挙兵。尊氏が入京すると後醍醐天皇は一時、比叡山に逃れた。親房らはそれからわずか20日後に、東北から乗り込んで尊氏を撃破し、京を奪還するという離れ業をやってみせた。その後、九州にまで逃れた尊氏は勢力を盛り返して東上。湊川の戦いで勝利した足利方は、後醍醐天皇に退位を迫り、南北朝は分立する。

 分立下で親房は、関東での南朝勢力の拡大に尽力、優勢を維持した。ただ、親房の功績を妬(ねた)んだ近衛家の介入によって状況は一転、関東での活躍が困難になった。そこで、後醍醐天皇が南朝を立てた吉野に親房が帰還すると、その後は当地から各地の情報を掌握し、全国の南朝勢力を巧みに指導して北朝を苦しめた。

 足利家の内紛をきっかけとした観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では、外交術を駆使して北朝側を四分五裂させ、北朝の崇光天皇の退位により皇統を南朝に統一する「正平の一統」を実現させた。また、一時は大宰府を掌握するなど九州に南朝方の一大勢力を築いた征西大将軍、懐良(かねよし)親王や、親王を支えた肥後の武将、菊池武光らも親房から多大な影響を受けている。

 このように、政戦両略に秀でた親房だが、その力の源は故実や漢籍によって鍛えられた学識にある。その最大の成果が、「神国思想の書」として知られる『神皇正統記』である。しかし、本書をひもとくと、親房の筆運びは日本が「日出づる国(日の本)」であるとすることに対して、意外なほどに冷淡だ。

 曰く、我が国は山を往来して生活していたから「やまと」と言ったのであり、それが当て字の都合で「日本」となったに過ぎない。また「大」と言う字もあってもなくても良い、と。そしてまた、「神国」も「神が守る国」ではなく「神の意志に沿わなくてはならない国」だとする。

 では、親房の思想はどのようなものなのか。

 『神皇正統記』では、神代から鎌倉末期までの歴史をつぶさに追っていく。そして折々で荒廃する社会は一人一人の「わがまま心」によるものだと断罪する。

 「自分らしくありたい」「功績を認められたい」などとの思いが、規則無視や越権行為、あるいは無意味な慣例増大につながる。それが、それぞれの職業に見合った言動を通じた人々の連携をズタズタにし、混乱を招く。これは、社会を役割分担で成長させたいと願う神の心に背いており、そのような国は滅びて当然だと、歴史を援用して証明しようとしているのである。

 混乱している時こそ自己を殺して職業や規則の原則に立ち返り、それぞれの仕事ががっちりかみ合うことで社会が機能的に回っていく。それがひいては国家社会に真の力と安定を与え、神の心にかなうのだ。

 『神皇正統記』ではこのような「神の心」を踏みにじる行動に徹底して筆誅を下していく。それは、歴代天皇ですら例外ではない。

 理屈はいいから役目になりきれ-。

 冒頭に引いた言葉の意味は、要するにこれにつきる。しかし、役目になりきった人の心は惑いがないため強く、物事の筋道を俯瞰的に見通すものである。敵をさんざん振り回した親房の知恵は、正に役割になりきって利害に惑わされないことで発揮された。

 親房の思想は、人倫の中に道を見いだそうとした彼の師、度会家行(わたらいいえゆき)を継承したものであるが、自己を殺して役割に落とし込んでいく分、一層厳しい。

 だが、コロナ騒動で危機に瀕している今日、国民の不信は、上に立つ人間が訳の分からない横文字や数字をふりまわすばかりで、当たり前の役目すら果たさないことに向けられている。

 「役目」を重んじる親房の思想は、そうした国民大衆を通して、今も厳しい視線と亡国の予言をさし向けているのである。

                  ◇

【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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