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【戦後75年】軍医が見た戦地の光景 熊本の医師の手記7冊、中国・東南アジアで記録

タイ領シンゴラ(現ソンクラー)に上陸する日本軍を描いた坂口敏之氏の水彩画(同氏の手記より)
タイ領シンゴラ(現ソンクラー)に上陸する日本軍を描いた坂口敏之氏の水彩画(同氏の手記より)

 日中戦争や第二次世界大戦に軍医として従軍した熊本県出身の医師が戦地での体験をつづった手記が、福岡県大牟田市の遺族宅に保管されていたことが、分かった。中国や東南アジアに赴き、負傷兵の治療に当たったときの心境や生活の様子を「従軍記」として冊子7部、計千ページ超にわたり克明に記録。捕虜や現地の風習を撮影した写真も多数残っている。

 近現代軍事史に詳しい一橋大の吉田裕名誉教授は「日本が掲げた戦争目的を肯定しつつ、冷静な視点も備えて戦争を記録している」と指摘。「詳細で貴重な史料で、歴史に残したいという意志が伝わる」と評価する。

 医師は故坂口敏之氏で、熊本医科大(当時)卒。戦後は大牟田市で医院を開き、遺族によると平成11年に89歳で亡くなった。

 日中戦争の発端となった昭和12年7月の盧溝橋事件後の10月、上海に派遣され「患者輸送部隊」の医師として、負傷した兵士を野戦病院から後方に送る際の治療に従事した。

 多数の兵士の遺体が並ぶ光景を「阿修羅の地獄図とはこんなものであろうか」と表現。砲弾が飛び交い、所属する班で犠牲者が出ると「悲しみにもだえ、突っ立ったまま敵陣をにらんだ」と記す。戦地に郵便局が開設されると、将兵たちは「陣中便りの第一報を、暗いローソクの光りのもと、最愛の妻へ、家族へと送り続けた」。

 第二次世界大戦では開戦直後のマレー作戦などに加わり、16年12月8日にタイ領シンゴラ(現ソンクラー)に入った。マレー半島を列車で縦断し、翌年3月に日本軍占領下のシンガポールに到着。その後はビルマのラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)に転じて同年秋に帰国した。

 自らもデング熱を患い、感染症の対応に苦慮した。薬品が限られる中で「間に合わせの治療しかできなかった」「戦争という精神的な重圧による異常心理にあえぎながら使命を遂行した」と回顧している。

 東南アジアでは写真集を作り、敵機の残骸とともに収まる日本兵や、日本軍占領下のシンガポールやラングーンの町並みなどの写真を記録。多くはカメラが趣味だった坂口氏自身が撮影したとみられる。捕虜を写した1枚には「戦ひに敗れた兵は憐れ」と、率直な思いを書き添えている。

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 ■現地の暮らし、独自の視点で

 旧日本軍の従軍医だった坂口敏之氏は派遣された東南アジアで、戦況や軍隊生活だけでなく、現地の文化や暮らしぶりも丹念に記した。独自の観察眼でつづった手記からは、異国に触れた新鮮な驚きが浮かび上がる。

 坂口氏は赴いた街々を歩き、果物売りの人々や人力車、寺院などを細やかに観察し、水彩のスケッチや写真を添えて記録。ビルマ(現ミャンマー)では、女性たちの腰布が「柄も色も美しい」と記し、人形劇を見て「日本武士の戦場劇そっくりで驚き、郷愁を呼んだ」との感想を添えた。

 当時のフランス領インドシナでは、農民の素朴な暮らしを眺めて「他国から征服されることは悲劇だ。救いの手をさしのべなければと痛感した」とつづり、日本人の戦争観が垣間見える。

 歴史学者で恵泉女学園大の内海愛子名誉教授は「坂口氏が東南アジアに赴いた頃は、日本の戦況がまだ良かった。将校階級の軍医という立場もあり、比較的自由に行動し、見聞できたのではないか」と分析する。

 坂口氏は戦後、医院を営んだ一方、熊本の子供たちの遊びを記録した本なども出版。福岡県大牟田市の長女、坂口ヒロ子さん(84)は「きちょうめんで物を書くことが好きな父親だった。後世に見たものを伝えたくて記したのだろう」と語る。手記は家族の間で保管する考えだ。

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