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【大場一央の古義解 言葉で紡ぐ日本】永山武四郎 北鎮健児作り上げた九州男児

 苟(いやし)くも武門武士たる体面を汚す様の事之ある可(べか)らず 『屯田兵員及家族教令』

 何か事があれば虎のように目つきが鋭くなり、家人はたちまちその指揮下で整然と動く-。

 これは九州男児の評ではない。北海道男性、いわゆる「北鎮(ほくちん)健児」についてだ。このような人物や家庭は、戦前の北海道人にとって至極当たり前の風景だった。この気風を作り上げたのが道都・札幌市から約1600キロ離れた薩摩藩(現鹿児島県)出身の永山武四郎(1837~1904)だったというのが面白い。

 維新後、西郷隆盛から北海道開拓を委嘱され、36歳で開拓使に所属。南下政策を採るロシアから北海道を守るべく、開拓業務に専念した。最大の功績は、農業と工業と軍事基地とを兼ねたコミュニティー「屯田兵村」の構想、推進だろう。

 初期の屯田兵は多くが、幕末に佐幕派として薩摩と敵対した仙台、庄内、会津などの諸藩の武士だった。ちなみに先祖が士族出身者だという家庭の比率が北海道で飛び抜けて高いのは、この屯田政策からだ。

 永山は、彼らが北海道に上陸した際は自ら出迎えて手厚くねぎらい、衣食住の供給から殖産事業と軍事教練の両立に至るまで、日夜ともに勤しんだ。

 屯田兵村は北海道中に広がり、主力だった佐幕派武士が、謹厳実直な士風を各兵村に刻み込んだ。

 52歳で北海道庁長官に就いた永山は、屯田兵の地位をより高めようと腐心する。最新の知識を学ばせようと、札幌農学校(現北海道大学)に派遣将校として入学させたほか、ロシア語学校を設立し、将来の対露戦を想定した将校教育にも手を付けた。また、屯田銀行(現北海道銀行)を設立し、軍務離脱後の経済的な自立の一助とした。さらに屯田政策による開拓を進めていた道央、旭川に離宮を建造。「北京(ほっきょう)」として天皇を迎える構想まで抱いた。

 冒頭の言葉は、屯田兵村をさらに拡大すべく平民出身者を対象に募集した際、発したものだ。永山は西南戦争に散った西郷の思想を継承し、北海道を精神性と実務能力に優れた「武士の国」にしようとした。屯田兵は最終的に7337戸、3万9911人を数え、7万4755ヘクタールを開拓した。

 旧軍随一の精強さを誇った第7師団の母体は屯田兵だ。初代師団長となった永山は日露開戦前夜の明治37年に病死する。遺骸は札幌、豊平墓地に、北に向けて葬られた。「北海道の土となってロシアから守ろう」との遺言だった。

 第7師団は、日露戦争での二〇三高地一番乗りに始まり、奉天会戦、ノモンハン事件、アッツの戦い、ガダルカナルの戦いといった日本戦史上最も過酷な戦場に投入され勇戦奮闘した。ソ連の名将、ジューコフから「最も苦戦した相手」という最大限の賛辞を受ける。戦後北海道の経済成長も、第7師団OBたちが中心に牽引(けんいん)した。

 そんな「北鎮健児」は、いわば永山の思想的作品である。今も彼らを通じ、永山は北海道を、そして日本を守護しているのだ。

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【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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