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【大場一央の古義解 言葉で紡ぐ日本】乃木希典 時流と戦い「日本」守る名将

 長府藩(現山口県下関市)藩士の子として江戸藩邸に生まれた乃木希典(1849~1912)は、儒学者の結城香崖(ゆうきこうがい)、玉木文之進(ぶんのしん)に漢学を学び、一時は学者の道を志したほど文才に恵まれた少年だった。ただ、17歳で長府藩報国隊に属して小倉城一番乗りを果たした後は戊辰戦争、秋月の乱、萩の乱、西南戦争などに従軍、軍人としての道を歩む。

 38歳でドイツ留学して以後、日清戦争、台湾出兵、日露戦争を戦う。日露戦争では第三軍を率い、戦史に名高き旅順攻略戦、奉天会戦を勝ち抜いて陸軍軍人としての勲功を重ねる。その後は現職のまま学習院長を兼務して皇族子弟の教育に従事。大正元年、明治天皇大喪の礼当日、夫妻で殉死した。明治天皇の信頼は厚く、また、昭和天皇も尊敬措(お)く能(あた)わざる謹厳実直(きんげんじっちょく)な人格者であった。

 旅順攻略戦での指揮は、その後の第一次大戦の欧州戦線における最新式の戦術を先取りしていたとも言われる。ただ、作家、司馬遼太郎はこれを乃木神話と切って捨て、公刊戦史や一次史料からは確認できない児玉源太郎の二〇三高地直接指揮説に立ち、徹底的に乃木愚将論を展開した。

 乃木に反発する一派は戦前から存在していた。代表格は白樺派である。志賀直哉は日記で「馬鹿な奴だ」と断じ、「丁度下女かなにかゞ無(む)考(かんが)へに何かした時に感じる心持と同じやうな感じ」を覚えたなども記した。武者小路実篤も「ある不健全な時が自然を悪用してつくり上げたる思想にはぐゝまれた人の不健全な理性のみが賛美することを許せる行動」(『白樺』大正元年12月号)とした。新思潮派の芥川龍之介も小説『将軍』でこき下ろした。

 この憎悪にも似た批判は何なのか。それを読み解くヒントは、乃木が殉死の直前、裕仁親王(後の昭和天皇)に熟読するよう渡した『中朝事実』(山鹿素行(そこう))『中興鑑言(かんげん)』(三宅観瀾(かんらん))にある。この2書は、歴史に鑑(かんが)み、日本は天皇から民に至るまで全て家庭や組織、国家における立場と役割があり、その役割に自らを落とし込むことではじめて一体となって調和すること、役割になりきってこそ人の個性は輝くもので、わがままや自我などは日本を崩壊させる悪徳であることを懇々と説く。

 乃木が親王にこの2書を託した理由は、『教育勅語』『戊申詔書』があえて渙(かん)発(ぱつ)されたことに代表されるように、西欧型個人主義の流入とともに深刻になっていた明治日本の倫理退廃への危機感であろう。

 乃木自身も時流に戦いを挑み、自らを「乃木希典」という思想的人格として洗練させていった。殉死は、その完遂といえる。

 コスモポリタン的な白樺派や、江戸時代に昭和日本を投影して批判した司馬ら、西欧と比べた日本の後進性を殊更強調する“国際派”からすれば、乃木とは明治以前の「日本」であり、乃木への理解、称賛は、思想的におぞけをふるうものだったのだろう。彼らはいわば、乃木批判によって、「日本」を撃とうとしていたのである。

 皇国の行くべき道は、誰の生活にもある日常卑近な道である。私がまず行けば、人もあとに続くであろう-。こう語った乃木希典は、今も東京都港区の乃木神社から「日本」を鎮護している。

 われゆかば人もゆくらむ皇国のたゞ一すぢの平らけき道 『乃木将軍詩歌集』

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【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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