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【大場一央の古義解 言葉で紡ぐ日本】(15)西郷隆盛 維新に異議申し立てた潔癖さ

 国に尽し、家に勤むるの道明らかならば、百般の事業は従って進歩すべし 『南洲翁遺訓』

 鹿児島県大口村=現伊佐市=出身の作家、海音寺潮五郎(かいおんじちょうごろう)は、歴史を単なる娯楽や知識ではなく、失われかけた日本人の品性を問い直す素材にしようと試みる「史伝文学」の大家だ。『天と地と』『茶道太閤記』など多くの名作を著した海音寺は、西郷隆盛(1827~1877)を畢生(ひっせい)の業と心に決めていた。

 絶筆となった長編史伝『西郷隆盛』で海音寺は、西郷を通じ日本人のあるべき姿を追い求めた。

 西郷は島津斉彬(なりあきら)の薫陶を受け、藤田東湖(とうこ)や橋本左内らと交際。一橋慶喜擁立に失敗して自殺未遂。島津久光との確執で沖永良部島に流され、復帰しては禁門の変、薩長同盟、王政復古の大号令、戊辰戦争、そして西南戦争と、幕末維新史の年表に悉(ことごと)く登場する。

 そんな西郷は、「清濁併せのむ」人物として人口に膾炙する。幕府や会津藩を突き放したかと思いきや、長州藩との電撃的な同盟、戊辰戦争の敗軍に対する温情など、一見するとそのようなイメージがわきやすいのは事実だ。しかし、海音寺はそんな理解を「不潔」と断じ、義憤に駆られるように創作に没頭する。

 西郷研究家としても優れていた海音寺の仕事は、その言動と動機を、一点の私欲なき「天道」という観点から説明していく。いわば「敬天愛人」という西郷の抱負を、その生涯に投影して表現しようとした思想書とすら評すべき作品だ。

 冒頭にあげた言葉、国家に尽くし、家庭を良くすることを心の底から願ってこそ、数多の事業は進歩する-は、西郷の口癖だった。名誉や評判、利害に左右されていれば、人間は人生を見失う。国家もまた、文明の華美にとらわれ、抽象的な学術や経済的利益を追い求めれば、必ず己を見失って滅びる。目の前の人をまるごと愛し、天が万物を生かすように、家庭を調和させるような国造りをすれば、どんな事業も自然に成し遂げられる。これが西郷流の「敬天愛人」だった。

 西郷は、この観点から幕藩体制でバラバラだった日本を一つの家にしようと明治維新を企図した。

 しかし、維新成りし後、政府高官は口を開けば西欧を賛美し、洋風の装束で華美を競い、あまつさえ江戸が守ってきた「国体」すら野蛮とあざける。彼らによる国民の分断は、「日本人」による日本殺しといえる。それは親殺しや墓暴きにも類するような“不潔”極まる振る舞いだ。そんな姿を目の当たりにした西郷は「今となっては戊辰戦争も倒幕派が私益を求めて起こした戦争に過ぎない」と泣き、西南戦争に死んだ。

 人の真意は死にざまを見れば、よく分かる。

 近代日本の行く末に破滅を見て、維新は間違っていたと思想的に断じ、自らを育んだ江戸思想に殉じた西郷は清濁併せのむどころか潔癖な男だったのだ。その死は、日本に不潔さを招来したことへの贖罪(しょくざい)であり、「日本人」への異議申し立てでもあった。

 この西郷を先蹤に、乃木希典、安岡正篤、小林秀雄、佐橋滋(しげる)といった後世の各界人士が登場することとなる。

 さて、口を開けば留学自慢をし、海外の文物を賛美して、日本人を蔑(さげす)むことで名声を博す一方で、われこそは真に日本を思っているなど公言するエリートたちとは、維新期のみに現れたものではない。そのような不潔な輩は、今も各界で幅を利かせている。

                  ◇

【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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