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【大場一央の古義解 言葉で紡ぐ日本】広瀬淡窓 天命を楽しんだ教育者

 敬天(けいてん)の旨(むね)、天命を楽しむを以(もっ)て主となす。

  『約言(やくげん)』

 豊後日田(大分県日田市)の儒学者であった広瀬淡窓(1782~1856)は、生来病弱であった。長く目を使うと腫れてしまうため、大きな文字で書かれた古典本文しか読めなかった。16歳で筑前福岡(福岡市)の大学者、亀井南溟(なんめい)に弟子入りしたものの、病を患って帰郷。家督を弟、久兵衛に譲り、独学で研究を進めざるを得なかった。24歳で私塾を開き、彦根藩より招聘(しょうへい)を受けたものの、妹が急逝したため、これを辞退する。29歳で結婚するも、子供はできなかった。

 輝かしい学歴、良い就職、温かい家庭といった、現代人の幸福の尺度からみれば、淡窓は間違いなく不幸に分類される。

 だが、淡窓は古典を読んでは瞑想(めいそう)黙考(もっこう)し、博覧を求めず、古典の精神を自家薬籠中(やくろうちゅう)の物にしようとした。また、儒教、老荘思想、仏教の区別なく、自分の関心にかかるものであれば、何でも読み進めた。

 「私は私の人生の疑問に答えてくれるものであれば読むし、そうでなければ聖人の書物であっても読まない。私は私のために学問しているのであって、古人を有難がって学問しているのではない」。

 このような考えだった。

 淡窓はさらに、世の中とは、理屈で割り切れる「理」と分からない「天」によって支配されていると言う。淡窓の“不幸”は「天」のなせる業であろう。それでも、淡窓は理不尽な「天」を無理に分かろうとはしなかった。「天」を敬いながら「理」によって人生をよりよくしようと努力したのだ。与えられた条件で人生を作る楽しみ。これが「天命を楽しむ」ということである。

 この思想は、淡窓の私塾、咸宜園(かんぎえん)の教育に反映された。「咸宜」とは「咸(みな)宜(それでよろしい)」ということ。門下生は自分の関心を探究するために徹底的に学力を養う。学問の作法である確かな読書力は徹底的に鍛える。しかし、何のために、何を研究するかは人次第。月ごとの「月旦評」で審査し、学力に応じて等級を定めた。

 咸宜園は明治維新最高の軍略家、大村益次郎をはじめ計4千人の塾生を輩出した。天命を楽しむ淡窓の生き方がそのまま教育方法として現れ、多彩な人材を生んだ。天は不幸によって、淡窓にしかなしえない幸福を与えたのである。

 久兵衛が継いだ広瀬家にもこの精神は流れていたのだろう。子孫には、日田市長や郵政相などを歴任した広瀬正雄氏や、その子供で、富士紡績(現・富士紡ホールディングス)元社長の貞雄(さだお)氏、テレビ朝日元会長、道貞(みちさだ)氏、現大分県知事、勝貞(かつさだ)氏らがいる。一家にして、この多士済々ぶりである。

                  ◇

【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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