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【大場一央の古義解-言葉で紡ぐ日本-】(8)横井小楠 政界遊泳巧者も道義的不感症

 何事も人に信ぜられざれば如何(いか)によろしき了簡(りょうけん)も仕法も行れ申儀(もうすぎ)にては無之候(これなくそうろう) 『横井小楠(よこい・しょうなん)遺稿』

 熊本藩に生まれ、30歳で江戸に遊学した横井小楠(1809~1869)は、佐藤一斎や藤田東湖(とうこ)といった当時の大学者、政治家と交流し、熊本に戻ってから教育活動に従事し、いわゆる「実学党」の中心にいた。

 「実学」とは何か。小楠曰く、(道義的な規範や観念である)「道」の研究など迂遠(うえん)なことはせず、政治や政策について研究すればそれでよい-。

 このような考えにもとづき、積極的に当時の社会情勢に提言を繰り返す。

 幕末動乱の日本が佐幕派と尊皇派に分かれて争う中、ちょうどその間にあって独自行動をとっていた越前福井藩主、松平春嶽(しゅんがく)は、小楠を4度にわたって招聘しブレーンとした。小楠は春嶽を動かし、藩政改革、ひいては幕政に影響力を持つようになる。

 だが、小楠は酒席での喧嘩、御狩場(おかりば)での発砲、暴漢に襲われた際に仲間を見捨てて逃走したことなどから、たびたび譴責(けんせき)を受け、ついに浪人に身をやつす。さらには条約破棄からの即時攘夷を工作し、徳川慶喜に論破されると、「自分が間違っていた。これだけ英明な方がおられるなら、二度と提言しない」と言いながら、2カ月後にはまた攘夷工作をはじめる。長州征伐の際にも、長州藩を「賊軍」と罵倒しながら、明治維新がなると今度は幕府を「賊軍」と言い、長州藩ら「官軍」の勝利を手放しで賞賛する。

 勝海舟に「自分は今日言っていることが、明日は変わっているかもしれない」と語った通り、小楠の言動には全く一貫性がなかった。幕末史が専門だった思想史家、山口宗之氏(九州大学名誉教授)は「道義的不感症」と評した。

 このような男が何故活躍できたのであろうか。

 それは、小楠が一貫して強力な中央集権制によって、諸外国と渡り合う強い日本を、純粋に求めていたことによる。その志だけは一度もぶれなかったからこそ、自分が納得すれば、すぐに飛びつく。そうして、主張をコロコロ変える政界遊泳が「信」を受けたのであろう。

 ただ、冒頭の小楠の言葉は、政界では通用しても人倫では通用しなかった。

 明治2年、小楠に不信を抱いた者らによる暗殺という結末で、その生涯を終えた。

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