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【大場一央の古義解―言葉で紡ぐ日本―】(2)筋目貫く信念の武将・立花宗茂

大場一央さん
大場一央さん

立花宗茂 

手前の仕合次第と存候(てまえのしあわせしだいとぞんじそうろう)

 『名将言行録』

 「(評価されるかされぬかは)私の人生の巡り合わせ次第である」

 戦国武将、立花(たちばな)宗茂(むねしげ)(1568~1642)は、朝鮮出兵後、その功績が豊臣秀吉から高く評価されるよう口利きをすると持ち掛けた石田三成に対し、こう語って拒絶したと伝わる。

 九州きっての名将、高橋紹運(じょううん)を父に、同じく勇猛さを知られていた立花道雪(どうせつ)を義父に持つ。その生涯は逆境に貫かれる。初陣を迎えた天正9(1581)年、主家、大友家は傾きつつあった。これに先立つ6年、薩摩の島津氏との耳川の戦い(宮崎県木城町)で大敗し、足元では国人領主が次々に反旗を翻していた。宗茂は島津軍と激闘を繰り広げ、肥後国人一揆では命がけの兵糧運搬作戦を敢行する。

 史料によれば、宗茂は用意周到な準備で敵の第一波をしのぎ逆襲で打ち破ることが常で、戦況を見極める独特の「目」を持っていたとされる。宗茂は、死生や利害、毀誉などに迷う己を殺し、なすべきこと(筋目)を通すことでその目が開くと考えていた。

 宗茂は、朝鮮に出兵した「文禄の役」の一大決戦、碧蹄館(へきていかん)の戦いに参加した。勢いに乗り南進する明・朝鮮軍への対応で軍議は割れた。そんな中、宗茂は「日本の武名異域に赫々(かくかく)たること久し。今敵の衆(おおき)を聞て退かば吾国の恥を如何(いかん)せん。戦ふに如(し)かざるなり」と主張する。算盤づくで進退を決めては勝てるものも勝てない。「名」に生きてこそ、勝ちは必ず見える。言葉通り、先駆けして勝利をもぎとった。

 関ケ原の戦いでは西軍に属し、一度は改易される。しかし、その節義と武勇で本多忠勝とともに「東西無双」と称された宗茂を、徳川家は高く評価していた。最終的には、柳川10万石の大名に返り咲く。

 筋目こそ成功への道-。この信念が宗茂の強さであり、彼が尊崇した上杉謙信の心法だった。宗茂は、惨憺(さんたん)たる敗残兵の運命にさえ打ち勝った。

 対照的に、日和見に徹した前田家へ放った宗茂の言葉が、ふるっている。

 「悪(にく)い奴共が腰は抜けながら、色々の事を申す」(腰抜けに限って物事が終わってからああでもないこうでもないと言ってくる。憎い奴らだ)。

【プロフィル】大場一央

 おおば・かずお 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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