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【大場一央の古義解-言葉で紡ぐ日本-】真木保臣 地方だからこそ見えるもの 

 日本人とは何者か-。その問いに、われわれは自信を持って答えられるだろうか。先人は神話に答えを求めた。代々語り継がれてきた昔話も答えの一つなのかもしれない。ただ戦後、それらは「作り話」とされてしまった。神話を今に伝える『古事記』『日本書紀』に基づく価値観・歴史観は失われつつあり、基礎教養とされた漢籍は片隅に追いやれた。今年は日本の正史とされた『日本書紀』が編纂されて1300年。この機に、九州・山口の先哲や彼らに影響を与えた各地の思想家の言葉を、気鋭の儒学者、大場一央氏の解説で紡ぎ、先人の日本人観を思い起こしたい。

 真木保臣(まき・やすおみ)

 私共の不面目は自然と御国の御不面目に相成候

  『藩主宛上奏文』

 「私たち久留米人がみっともない恥をさらせば、それは久留米の恥になるのです」。そんな郷土への誇りあふれた文章を残したのは、幕末の動乱を駆け抜けた久留米藩士で、水天宮第22代神官、真木保臣(和泉守、1813~1864)だ。

 中央政界で活躍した期間は、54年の生涯の内、わずか4年ばかりと少ない。それでも、従来幕府強化による攘夷論が常識だった攘夷派に、倒幕親政という新たな思想を植えつけ、後の明治維新への道を開いた。

 真木は32歳で水戸へ遊学し、当時最高の学識を誇る会沢正志斎(1782~1863)の薫陶を受け、水戸学(天保学)を学んだ。帰郷後、水戸学をもとに藩政改革を志向するも、藩内抗争や自派の分裂に巻き込まれ、40歳から10年間の幽居生活を余儀なくされる。

 その間、水田(筑後市水田)の山梔窩(くちなしのや)で教育と学問に勤しむ傍ら、みずからの思想を純粋化していく。そして紆余(うよ)曲折を経て50歳の時に上京するや、尊攘派の理論的指導者となり、八面六臂(ろっぴ)の活躍をみせる。兵学者・思想家、佐久間象山の招聘(しょうへい)、親政攘夷計画、経済掌握を目的に朝廷による貨幣鋳造を上奏するなど、幕府方を翻弄していく。

 時代の常識は、後の時代から見れば固執に過ぎないものも多い。真木は中央の喧噪(けんそう)から離れていた故に、常識を覆すことが可能だった。地方だからこそ見えてくるものがある。

 真木によって、天皇を中心とした中央集権国家を作るという思想が急速に現実味を帯びた。こうした活躍から、彼は南北朝時代の名将、楠木正成にちなみ当時、「今楠公」と呼ばれた。現代の九州、山口に常識を疑い、本気で変えようとする「今真公」はいるのだろうか-。

                  ◇

【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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