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大極殿院は未完成か 恭仁京跡で塀跡を確認できず

 8世紀に聖武天皇が造営した恭仁京(くにきょう)の跡(木津川市加茂町)から、官僚が政務をした「朝堂院」の北西角とみられる柱列が出土し3日、府教育委員会文化財保護課が発表した。これにより朝堂院の範囲が東西117メートル、南北100メートルで確定した一方、同院北端に接するはずの天皇が政務・儀式を行う大極殿院の南端の塀跡は確認できず、大極殿院が未完成だった可能性が高いことがわかった。

 恭仁京は、天平12(740)年に藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が九州で起こした朝廷に対する反乱を機に聖武天皇が平城京を離れ、一時的に営んだ都。約5年間機能したといわれている。

 昭和48年から始まり今回で100回目となる調査では中心施設「恭仁宮」の範囲確認のため、北から南に向け配された大極殿院、朝堂院、朝集院のうち、大極殿院と朝堂院が接した塀跡と朝堂院跡の内部の計約235平方メートルを調査した。

 この結果、朝堂院の北西角想定地から大極殿院とを仕切る塀跡のものとみられる、直径約30センチの柱跡がL状に並んだかたちで計11カ所、約3メートルの等間隔で出土した。柱はいずれも抜き取られていた。

 ところが、朝堂院よりひと回り大きいとされる大極殿院の塀の柱跡が、本来は朝堂院北西角からさらに西に延びて出土することが想定されていたが、その跡は見つからなかった。一方で、朝堂院北西角の西約15メートルの大極殿院の塀の想定地周辺から、土を極度にたたき締め造成された高まりも見つかった。同課は「大極殿院が未完成のままで再び平城京に戻ったとみられるが、一部では大極殿院の塀に伴う造成が行われていた可能性もある」と、今後の調査に期待を持たせた。

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