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【地方は滅びず-逆転のモデル-】6次産業化(1)「畑を丸ごとお金にかえる」規格外野菜、食材に

野菜をふんだんに使った料理が並ぶ「野の葡萄」イムズ店
野菜をふんだんに使った料理が並ぶ「野の葡萄」イムズ店

 ■「地域と共に」父の信念継ぐ

 大皿に盛られたパスタやグラタン、煮物、サラダ-。新鮮な野菜をメインとする約60種類の料理やスイーツが並ぶ。福岡・天神地区の商業ビル、イムズにあるビュッフェ形式のレストラン「野の葡萄(ぶどう)」だ。昼時ともなれば、150席の店内は、食事を囲む楽しそうな声に満ちる。

 女性の人気が高く、客の8割はリピーターだという。飲食店の激戦区・天神にあって、平成14年の出店以来、17年たっても根強い支持を集めている。

 運営会社は福岡県岡垣町の「グラノ24K」で、料理には地元産の野菜を使う。生産、加工、販売は同社だけでなく、地域で分担する。都会のレストラン収入が、田舎の生産者を潤す構図ができた。

 社長の小役丸秀一(64)は「6次産業化」という言葉すらなかった時代から、農業を軸に地域全体が豊かになる姿を目指した。これまでに、同町にある観光施設「ぶどうの樹」だけでなく、「野の葡萄」をはじめ、全国約40店舗を展開する。

 全国が注目する6次産業化のモデルは、市場に卸せない規格外の野菜を買い取るというアイデアが、大きな一歩だった。

 ◆環境も売ろう

 始まりは父、卯太郎のブドウ農園だった。

 小役丸の家は、岡垣町で林業や採石業、旅館を営んでいた。だが、卯太郎は40歳を過ぎた頃に体調を崩すと、農業をやりたいと言い始めた。昭和40年頃、採石場の敷地にブドウ農園を開設した。林業と採石業はたたんだ。

 小役丸は旅館を継ぐのに必要だと考え、八幡大学(現九州国際大)卒業後、大阪・北新地の日本料理店に修行に出た。

 30歳くらいまで、本格的に料理を勉強するつもりだったが、2年後に呼び戻された。昭和55年ごろ、旅館を増改築したため、人手が足りなくなったのだ。

 「まだ下積みなのに」と思ったが、厳しい卯太郎に、反論はできなかった。

 卯太郎が始めた農園は59年、木漏れ日の下でバーベキューを楽しめる「ぶどうの樹」として新たなスタートを切った。

 きっかけは、前年に訪れたニュージーランドからの来客だった。卯太郎が以前、農協の研修旅行で現地を訪れた際に仲良くなった人たちだった。

 卯太郎は農園でのバーベキューを提案した。

 「外国の人はアウトドアで楽しむのが上手だから、喜んでもらえるのではないか」

 思った通り、ニュージーランドからの団体客は、3~4時間もかけて食事を楽しんだ。誰かが音楽をかけると、輪になって踊り出した。小役丸はその様子に見入った。

 「いつもの景色なのに違って見える。木漏れ日や吹き抜ける風まで、全く違うようだ」。衝撃だった。

 「秀一、環境も一緒にお客さまに買ってもらえるようなことをしようや」。卯太郎が語りかけた。

 ◆NYにヒント

 昭和50年代後半、日本はオイルショックから立ち直り、安定成長を続けた。国民は繁栄を謳歌(おうか)した。

 だが、高度成長期以降、地方から都市への人口流出が続いた。高齢化や後継者不足が、農家をむしばんでいた。

 小役丸親子は、1次産業が中心の岡垣で商売を営む。農家の衰退は看過できない。

 「いくら観光施設に人が来ても、地域には交通渋滞と、ごみしか残らない」

 自分の所だけが繁盛しても、地元の生産者と一緒に繁栄しなければ、地域おこしにはならない。地元の観光協会会長を長く務めた卯太郎の信念だった。

 卯太郎は、ぶどうの樹のバーベキュー用に、地元農家から野菜を仕入れるようにした。「地産地消」の先駆けであり、親子は「農家にもプラスになる」と胸を張った。

 実際は、そうではなかった。

 ぶどうの樹がにぎわうのは週末や祝日で、平日はガラガラの状態だった。地元農家からの仕入れは、毎週金曜日だけだった。

 平成5年ごろ。農家の「おばちゃん」が、仕入れに来た小役丸に少し曇った表情を浮かべた。

 「もしかして迷惑?」

 小役丸は恐る恐る聞いた。

 おばちゃんは、遠慮しながら答えた。「本音を言えば…。うちの野菜は月曜から取れとうばい」

 農家にとっては、週に1回だけ、ぶどうの樹のために、出荷するのは手間だった。できれば、毎日買い取ってもらいたいという思いもあった。

 「自分たちの考えは独りよがりだった。これじゃいかん」

 小役丸は解決法を考え始めた。7年には「グラノ24K」を設立し、社長に就いた。だが、地域と一緒に栄えるための解は、出なかった。

 その間、全国の農家は減少の一途をたどった。3年に819万人だった農業従事者は、10年には691万人だった。7年間で130万人近く減っていた。高齢化も著しく、65歳以上が占める割合は31%で、3年に比べて10ポイント上がった。

 岡垣も例外ではない。低収入による後継者不足で、耕作をあきらめる農家が増えた。

 小役丸の焦りは募った。解決のヒントは、米ニューヨークにあった。

 10年ごろ、スーパー「スチュー・レオナルド」の視察を目的に訪米した。ユニークな陳列方法、生産者から直接仕入れる仕組みで、注目を集めていた。

 しかし、小役丸がはっとしたのは、有名スーパーではなく、プラザホテルで初めて体験したビュッフェスタイルのレストランだった。コース料理とは違い、並んだ皿に盛られた料理から、好きなものを好きなだけ取って食べる。世界に冠たる高級ホテルで、いろいろな料理を気軽に楽しめる雰囲気も新鮮だった。

 「これだったら、あるものだけでいいやん」。メニューありきではなく、食材ありきのレストラン。仕入れた野菜からメニューを決めれば、地元の農産物を使いやすく、仕入れ量は増える。そう考えた。

 さらに、本来なら売り物にならない規格外の野菜に目を付けた。

 小役丸の脳裏には、子供の頃に遊びに行った農家の光景が焼きついていた。家の裏に、野菜が山積になっていた。

 形が不格好だったり、小さすぎたりして、売り物にならない野菜だった。味や品質には問題ないのに、小バエがたかって腐っていく。

 「農家はもうからんって言うけど、何で捨ててしまうのか。これもお金になればよかろうもん」

 子供心に抱いた素朴な疑問が、呼び水になった。

 規格外の野菜も売れるようになれば、畑丸ごとがお金になる。

 「何でも作れば、うちで引き取るよ」。小役丸は町内を回り、農家に呼びかけた。出荷量も問わなかった。

 規格外品は、厨房(ちゅうぼう)では使いにくい。切ったり皮をむくのに、手間がかかる。料理人や加工場で働く社員からは、不満も出た。

 小役丸は料理人を畑へ連れて行った。野菜に詰まった農家の思いや、苦労を聞かせるためだった。

 小役丸は原則、野菜の集荷も農家に直接出向く方式を採用した。農家にとって、市場や他企業への出荷と違い、袋詰めや運搬などの作業を省ける。

 最初は2、3軒だった取引農家は徐々に増え、30軒以上になった。少量でも買い取ると聞きつけ、「それならば」と作付けを再開した農家もあった。

 地元農家から直接仕入れる野菜は月約300万円に上る。契約農家が30軒だとすると、1軒平均で月10万円の収入になる。中には月100万円を得た農家もあった。

 規格外を含むことで、グラノ24Kにとっても仕入れコストの軽減につながった。両者にとってウィン・ウィンの仕組みだった。

 ◆都市圏へ進出

 平成13年、グラノ24Kは、北九州市八幡西区の井筒屋黒崎店に、野の葡萄1号店を開業した。

 岡垣町は、北九州と福岡両市の間にある。「ぶどうの樹」は軌道に乗っていたが、さらなる成長には都市圏進出が欠かせなかった。

 だが、資金の相談に訪れた金融機関の担当者は、強く反対した。

 「君は何を考えているんだ。出店は早すぎる」

 さまざまな設備投資で、借入金がかさんでいた。そう言われるのも無理はなかった。

 懸念は他にもあった。JR黒崎駅を中心とする商業地域は、製鉄業の縮小もあり、往時のにぎわいを失っていた。

 小役丸は食い下がった。

 「こういうチャンスはなかなかない。ぜひチャレンジさせてください」

 勝算はあった。ビュッフェやバイキングの飲食店といえば、肉料理を中心としたものがほとんどだった。地産地消をコンセプトに、野菜を目玉にした店は少なかった。

 3、4時間かけて説得し、担当者はようやく首を縦に振った。

 狙い通り、野の葡萄にはオープンから連日、行列ができた。規格外野菜を買い取って食材にするという地元農家を巻き込んだ取り組みは、話題を呼んだ。多くの企業や自治体関係者が視察に訪れるようになった。

 イムズに出店した14年、卯太郎が食道がんで亡くなった。79歳だった。

 息子が事業で成功しても、めったにほめず、小言を挟んだ。小役丸はいつも敬語で話しかけた。

 それでも、「地域と一緒に」という口癖と信念は、親から子へと受け継がれた。親子の取り組みは、地域の農家にさらなる相乗効果をもたらした。 (敬称略)

                   ◇

【用語解説】6次産業化

 農業などの1次産業、製造・加工の2次産業、販売の3次産業を生産者が一貫して担う取り組み。平成4年に東京大名誉教授の今村奈良臣氏が提唱した。農山漁村の活性化策として所得の向上や雇用の確保、地域振興が期待される。23年に国が「6次産業化・地産地消法」を施行し、本格的に取り組みが広がった。

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