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【坂東武士の系譜】エピローグ・内と外を結ぶ視点 天徳寺宝衍(上) 京の人脈と教養、秀吉側近に

天徳寺宝衍の隠居所、金蔵院の山門=佐野市仙波町
天徳寺宝衍の隠居所、金蔵院の山門=佐野市仙波町

 戦国時代の公家・山科言継(ときつぐ)の日記「言継(ときつぐ)卿記(きょうき)」には、天文17(1548)年、京の飛鳥井(あすかい)雅綱邸で蹴鞠に参加する「下野天徳寺」の名がみえる。下野国佐野から都に上った若者、天徳寺宝衍(佐野房綱(ふさつな))であろう。飛鳥井は蹴鞠の師範の家である。さらに同書の2年後の記事によると、宝衍は、覚恕(かくじょ)法親王が書写した藤原定家の歌論集「詠歌大概(えいがたいがい)」写本を言継から譲り受けた。覚恕は後奈良天皇を父に持ち、後に天台座主(ざす)となる高僧。宝衍の向学心と人脈は底知れぬ面白さがある。

 宝衍は、織田信長、豊臣秀吉とも交流。東国進出の案内役となる。佐野市教育委員会文化財課長、出居博さんは「秀吉は、宝衍の高い教養とさまざまな人脈を知り、関東の武将たちとの重要な交渉役に用いたのでは」とみている。

 なぜ、京の文化人と関わりを深めることができたのか。出居さんは、佐野の天明(てんみょう)鋳物に注目する。「天明釜の素朴な風合いは、千利休が追求したわびさびの心に通じる」。茶道流行の中、利休が重用したことで「西の芦屋に、東の天明」と、福岡県芦屋町に並ぶ名品産地として知られていく。佐野には京の文化に関わる下地があった。

 経歴は謎が多い。軍記物「佐野記」では、永禄元(1558)年生まれ、佐野宗綱の弟として登場。だが、1560年代には北条氏、上杉氏の書状にその名が出ており、既に外交面で活躍していたとみるべきだ。

■天徳寺宝衍(てんとくじ・ほうえん) 1530年代?~1601年。佐野豊綱の次男。昌綱の弟。「了伯」の名を記す史料もあるが、同時代の書状は「天徳寺宝衍」とする。塚原卜伝(ぼくでん)に剣術指南を受けたとの伝承も。

 連載を締めるエピローグは関東の外に出て中央と交流を持ち、戦国時代を駆けた人物に焦点を当てる。

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