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【地方は滅びず】「天下無双」陶磁器の島(3) 次代に残すブランドを

天草陶磁器の振興に取り組んできた木山勝彦氏。手に持つのが天草陶石
天草陶磁器の振興に取り組んできた木山勝彦氏。手に持つのが天草陶石

 ■産地として未完成、だから伸びしろがある

 「天下無双の上品」

 江戸時代の発明家で名コピーライターだった平賀源内は、天草陶石をこう評した。磁器の原料となる陶石の中でも、添加物なしで透き通るような白色が出る。

 天草陶磁振興協議会会長の木山勝彦(75)は、明治30年から続く家業の陶石採掘を継ぐとともに、窯元「内田皿山焼」を創業した。

 原料を取り扱い、器を作る。その人生は「陶石の島から陶磁器の島」を目指す天草の道のりと重なる。

 木山が内田皿山焼を創業したのは、昭和45年だった。もともと、たこ壺などを作っていた会社を引き継ぐ形だった。

 木山は、継承した会社の敷地を採掘した。陶片がごろごろと出てきた。

 詳しく調べると、江戸時代初期の1650年頃から、焼き物が作られていたと分かった。

 日本の焼き物が大きく進化したのは、戦国時代から江戸時代初期にかけてだ。千利休、古田織部、小堀遠州ら茶人の手によって、茶器の評価が上がり、製作が盛んになった。

 同時に、有田など現在の佐賀県を中心に磁器の生産が始まった。禁輸政策をとった清国に代わり、伊万里の港からヨーロッパへ高品質な磁器が輸出された。ドイツ・マイセンなど欧州各地の窯元で、この「伊万里焼」をまねた器が焼かれる程だった。

 有田で焼き物の生産が始まったのは、1600年代の初めとされる。木山が天草で継承した窯の操業地は、それに続く程の歴史を持っていた。「何かの縁だ。江戸時代から続く天草の焼き物を再興しよう」。熱意が芽生えた。

 木山は協議会会長として、焼き物の産地化に取り組んだ。平成16年には大陶磁器展を始めた。他の窯元と一緒に、熊本市内や福岡市内に出かけ、焼き物を販売した。

 10年以上たった頃だろうか。

 「天草って焼き物の産地なんですか?」

 福岡市内の展示会で、客の一言が木山の胸に刺さった。「まだまだ産地として道半ばだな…」

 木山ら天草の窯元の前に立ちはだかったのは、天草の歴史そのものだった。

 江戸時代、天草は幕府の直轄地「天領」だった。島原・天草の乱(1637~38)の影響だった。

 有田・伊万里焼(佐賀)、唐津焼(同)、高取焼(福岡)、薩摩焼(鹿児島)などは、それぞれの藩が産業政策として、強力に支援した。藩の威信をかけて、焼き物の産地間競争を繰り広げた。

 その結果、芸術品としてレベルが上がり、ブランドが確立した。

 これに対して天草は、個々の窯元が日用品としての器を作ってきた。大多数の人がイメージする、確立されたブランドもない。

 歴史が培ったブランドの壁。天草の窯元は、何度もはね返された。

 「ブランドがないなら、次の代のために、時間をかけてでもつくろう」。木山らはそう考えるようになった。

 ■プライド衝突

 「熊本を代表する土産物として、天草陶石を使った新商品を作りませんか」。平成27年ごろ、熊本県の地域振興の担当者が、木山に持ちかけた。

 東京で活躍するアーティスト、古門圭一郎(48)を交え、新しい磁器を作る計画だった。

 天草の焼き物を、熊本の宝として世に出す-。またとない機会だ。製作は木山の内田皿山焼と、高浜焼寿芳窯が担うことになった。

 神奈川県出身の古門は、インテリアや空間デザインなどを手掛ける。古門が持ってきたカップの図面を見て、木山の顔が曇った。口をつけるふちに、厚い部分と薄い部分をわざと作っていた。唇で触れたときの、飲み物の温度の感じ方を変える工夫だった。

 「無理でしょう。こんなに薄くすると釉薬がのらない。そこだけ手触りが悪くなります。変形もしやすい」

 焼き物屋として、安定感や割れにくさを重視してきた。「焼き物はそういうもの」というイメージがあった。

 古門は引き下がらない。「じゃあ、どこまでならできるんですか」

 古門も、天草の焼き物は十分アピールできていないと感じていた。新たな製品に挑戦してほしいと、あえて器の既成概念を壊す要求を突きつけた。

 デザイナーと焼き物屋のプライドがぶつかった。古門は図面を書き換え、窯元側は、石膏(せっこう)型を何度も削り直した。互いが納得できるまで、試作を5回、6回と繰り返した。

 天草陶石が生み出す白い磁肌に、世界遺産となった地元の教会をモチーフにした模様を、藍色(あいいろ)や銀色で描いた。

 時代に即し、花を生けたペットボトルを覆って花瓶に見せるカバーもできた。

 平成30年2月、商品の販売が始まった。ブランド名は「Amacusa MUSO(天草無双)」

 熊本市の県伝統工芸館や、天草の観光施設などで売られた。客の反応は上々で、関東からも問い合わせがあった。

 木山は「天草無双」と並行し、別のプロジェクトも始めた。超高級コーヒーカップだ。地元の8窯元と、カップとソーサーで、1セット1万~2万円で売れる商品を目指した。

 天草の窯元が作ってきたのは、高くとも2千~3千円のカップだ。どんなカップなら5倍、10倍の価値を認められるのか。コーヒー専門家に、指導を求めた。

 容量は大きすぎず、軽く、取っ手は指でつまみやすい形が良いと言われた。

 平成29年度からの3年間、新たな作品を毎年展示した。1つ2万円でも売れた。

 「産地として九州で認められるのは、われわれの次の代か、その次の代かもしれないな」。木山は最近、他の窯元たちと、よくそんな話をする。

 あきらめではなく、自分たちができる限りのことをして、次の世代に託す。

 そんな天草陶磁器のファンは、販売業者にも広がった。

 ■化学反応期待

 「めちゃめちゃアナログに作っている」

 衝撃としか言いようがなかった。福岡市内で陶器販売店「うつわ屋フランジパニ」を営む地蔵(ちくら)俊一郎(45)は、初めて訪問した天草の老舗窯元「丸尾焼」の工房で目を疑った。

 若い陶工が、目の前に置かれた見本の器を見ながら、ろくろを回していた。筆で付けるしま模様は、見本と太さが若干違う。一つ一つ違う器ができていた。

 地蔵は、平成16年9月に店を構えた。その半年ほど前から、仕入れで九州の産地を回っていた。

 展示会や個展で丸尾焼の作品を見て、天草に興味を持った。温かみのあるポップなデザイン、手頃な価格に引かれた。数も種類も多い。さぞ、管理された工房だろうと考えていた。

 それだけに、手作り感に心を奪われた。

 地蔵はもともと、エンジニアとして、東証1部の上場企業で働いていた。生産ラインでは、作業時間を1秒でも削り、効率を高めることに心血を注いだ。ストップウオッチを持ち、作業員を怒鳴り散らしたこともあった。

 疲れ果てて仕事を辞めた。宮崎の海岸で趣味のサーフィンをしながら、レストランでウエイターをやった。その後も職を転々とし、見かねた妻の朋子(44)から、器屋を提案された。

 妻は佐賀・唐津出身で、家庭では唐津焼の器を使っていた。地蔵本人は焼き物への知識も関心もなかったが、「やってみてだめだったら、サラリーマンに戻ろう」と、陶芸家を回り始めた。

 丸尾焼を含め、出会った陶芸家は、地蔵のイメージと違った。先生と呼ばれる威圧感はなく、気さくで、ものづくりへの真っすぐな気持ちを持っていた。作品に触れると「こんなカップでお茶を飲んだら、幸せだろうな」と、自然と思えた。

 話を聞くと、窯の調子が悪く、こつこつ形作った器が全滅することもあるという。製品が全てだめになるなんて、会社では許されない。だが、焼き物屋は豪快に笑い飛ばす。

 「こんな生き方をしている人がいるんだな」

 地蔵は焼き物の仕事に、人の営みを感じた。「何としても、陶芸家と仕事をしたい。工房を訪れて感じた魅力を、広く伝えたい」

 天草や福岡・糸島、小石原の作家の作品を並べ、店を開業した。

 経営が厳しいときも、自分と妻の感性を信じ、客の好みを想像しながら、器を仕入れた。同世代の女性を中心に、リピーターが増えた。5年ほどで人気の器屋となった。

 仕入れに各地を巡ると、他の産地と天草の違いをはっきりと感じる。

 信楽(しがらき)焼(滋賀)でも、常滑(とこなめ)焼(愛知)でも、昔からの有名産地は、近くに大都市がある。焼き物としてイメージできる作品もある。

 それに比べ、天草は熊本の果てにあり、確立されたイメージもない。窯元は厳しい戦いを強いられ、報われていない。だが、エネルギーを感じる。なにより作品には、特有のおおらかさが表れる。

 産地として未完成。作風も自由。だからこそ天草に行くのは毎回楽しい。陶磁器展などで外から招聘(しょうへい)したアーティストと、島の陶芸家がどんな化学反応を起こすのか-。期待は膨らむ。

 「天草はこれから、有名な産地になる。今、天草に目を向ける人は、その成長過程を味わえる」。地蔵は天草の伸びしろを確信している。(敬称略)

                     ◇ 

 「陶磁器の島」は高瀬真由子が担当しました。

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