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【地方は滅びず】陶磁器の島(2) 大陶磁器展「訪れたい天草に」

丸尾焼の工房。金澤一弘氏の息子ら職人が日々、器を作る
丸尾焼の工房。金澤一弘氏の息子ら職人が日々、器を作る
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 ■老舗の誇り、若手に好機を

 「陶石をキーワードに、島の再興を進めよう。産業をつくり上げないと、島に人が残らない」

 平成11年7月、熊本・天草にあった8つの窯元が、天草陶磁振興協議会を設立した。

 翌年の「西暦2000年」に向け、世の中の雰囲気は沸いていた。

 だが、協議会の中心メンバーとなった丸尾焼当主の金澤一弘(61)は、故郷の将来へ不安を抱いていた。

 天草には、豊かな海産物に加えて、大地の恵みがあった。良質な石炭と、磁器の原料となる「陶石」が、島の経済を支えていた。

 しかしエネルギー政策の転換で、炭鉱は閉山となった。

 陶石の出荷量も減少の一途をたどった。贈答品や輸出品として、陶磁器の市場が縮小したからだ。

 昭和30年代に年間10万トンあった天草の陶石出荷量は、平成になると2万トンまで落ち込んだ。島に7社あった陶石業者は、3社となった。

 活力を失った島を、若者が離れるようになった。昭和の終わり頃から毎年、1千人規模で人が減った。天草の人口は昭和30年代の22万人から、15万人になっていた。

 「島が生き残るには、産業を育てるしかない」。金澤は思いを深めた。

 金澤は、江戸後期の弘化2(1845)年から続く丸尾焼の5代目を務める。

 昭和55年に当主を継承する際、天草で焼き物屋をやる意味を真剣に考えた。祖父・武雄の影響もあった。

 丸尾焼3代目の武雄は、窯業の技術者として、全国の産地を指導に回った。教え子に、陶芸家で人間国宝となる浜田庄司がいた。浜田は大正時代から昭和にかけて、素朴な日用品に美を見いだす「民芸運動」の提唱者の一人で、栃木・益子(ましこ)に窯を構えた。

 民芸運動は、軽視されてきた日用品に「用の美」という光を当てた。焼き物に限らず、伝統工芸の産地を勇気づけた。

 その浜田を益子に呼んだのが、同地で窯業指導所の所長を務めた武雄だった。いわば武雄は、現在の焼き物人気の源流にいる人物といえる。

 金澤はあるとき、武雄からこう言われた。「益子は近くに東京という大市場がある。それに比べて天草を見ろ。天草で高級な焼き物が売れるか」

 天草で焼き物屋をやるなら、使いやすい物を、手に取りやすい価格で売るしかない。そのためには集団で製作し、生産力を上げる必要がある。

 金澤が行き着いたのは、伝統工芸の世界で、長く続いてきた徒弟制度だった。 生産力のある産地には、技術を持つ職人の集団がいる。師匠から弟子に技術が継承され、工芸品も伝承されてきた。

 「自分の窯を発展させて、次の世代につなごう。焼き物という産業を、天草の地に根付かせるのが俺の役割だ」。そう誓った。

 さらに、同じ老舗窯元と協力し、焼き物の産地化を始めた。合言葉は「陶石の島から陶磁器の島へ」だった。

 それまで天草の窯元は、個人的な付き合い程度しかなかった。だが、危機感がまとまりを生んだ。

 「原料の陶石が取れるんだから産地として発展できる」「若手にチャンスのある島にしよう」

 窯元の声に、行政も呼応した。

 平成12年10月、天草で開かれた熊本県民文化祭で、一つの決議文が採択された。

 「天草は日本一の陶石の産地であるとともに、江戸時代からすばらしい天草陶磁器を作り出してきた。陶芸家、地域住民、行政が一体となり、全国に誇れる『陶磁器の里』づくりを目指して行動する」

 産業化へ大きな一歩となった。

 ■「公」を

 といっても、天草には10程度の窯元しかない。全国的な産地として認められるには、陶芸家を増やさなければならない。

 「若い連中が天草で稼げる環境をつくり、焼き物屋が集まる島をつくろう」。金澤らが企画したのが、大陶磁器展だった。

 有田焼(佐賀)や、薩摩焼(鹿児島)などの有名産地は、定期的に大規模な器の即売イベントを開く。ゴールデンウイーク中に開く有田陶器市は毎年、100万人超の人が集まる。

 金澤は大陶磁器展の実行委員長に就き、島内外の窯元に出展を呼びかけた。

 「島に新しい風を呼び込みたい」。そう思い、器を使う料理評論家らを、イベントに招いた。

 16年10月30日、天草初の大陶磁器展が開幕した。島内外の33窯元が出展し、5日間で約1万人が訪れた。

 アクセスが不便な島に、これだけの人が来る。窯元に驚きと喜びが広がった。

 金澤は満足しなかった。

 「有田や薩摩には、もっとたくさんの人が行く。その地の先輩が頑張ったから、今があるんだ。天草もいつか、焼き物が盛んだって言われるようにしたい」

 金澤はその後も、大陶磁器展の実行委員長として、企画に趣向を凝らした。元ニュースキャスターや、島外の陶芸家、コーヒーの専門家らを招き、地元の陶芸家に刺激を与えた。

 イベントは令和元年となった今年、16回目を迎える。出展する窯元は100を超え、2万人が訪れるイベントに成長した。宿泊や飲食を含め、島への経済効果は1億円を上回る。

 金澤は並行して、丸尾焼で弟子を取り続けた。これまでに10人以上が独立し、多くが島で窯を開いた。

 弟子を育てるには、時間も費用も必要だ。せっかく育った弟子が独立すれば、窯には大きな痛手となる。

 しかし、引き留めはしない。独立への思いが、若手のモチベーションになるからだ。

 金澤の息子3人もみな、陶芸家となった。

 長男の佑哉(36)は高校卒業後、東京に出て島に戻り、良さに気づいた。

 「天草には、魅力を感じるおもしろい人が来てくれる。島のおじさんたちも楽しそうに生きてる。不便でも、人が来たいと思える島にすれば良い」

 イベントを企画し、弟子を育てる。「なぜこんなに頑張れるんですか」。金澤に問いかけた人がいた。

 こう答えた。

 「老舗は『公』を意識しないといけない。個には持続性がないが、公は永遠を保つ可能性を持つ。この島で生まれた人が、焼き物を職業にして一生をしのぎきる。その道筋をつくり、進むべき方向を提示しなければならない。そんな気持ちがある」

 金澤の情熱に、多くの人が引き込まれた。水(みず)の平(だいら)焼の岡部祐一(48)も、その一人だった。

 ■継承にためらい

 水の平焼は江戸中期、明和2(1765)年創業で、254年続く。

 家には、明治10年の第1回内国勧業博覧会への出品に関する賞状も残る。そこには「内務卿 大久保利通」の判が押されている。

 岡部は若い頃、この老舗の長男に生まれたことを、重く感じていた。

 「継いでしまえば一生、天草にいることになる。才能があるわけでもないし、継がないといけないもんでもないだろう」

 大学を卒業後、家の手伝いをしながらも、継承に前向きな気持ちにはならなかった。

 そんな中、老舗窯元を中心に、天草が動き出した。父、信行(82)とともに、岡部も「次期当主」として、産地化の動きを手伝うことになった。

 他の窯元との付き合いが増えた。福岡での展示会などに一緒に行く機会もできた。

 「あんたの家とおれの家は、びしっとしとかないかんけんな。老舗は矜恃(きょうじ)を持たんといかん」。丸尾焼の金澤は常々、岡部に言った。

 老舗の矜恃とは何か-。容易に答えは出なかったが、焼き物づくりへの真剣さは深まった。次第に自分が作りたいものが、見えてくるようになった。

 水の平焼最大の特徴は、「海鼠釉(なまこゆう)」だ。釉薬を二重がけして、色の深みを出す。

 半面、現代風の食卓に乗せると、存在感がありすぎて、やぼったく見える。

 岡部は器の形に工夫を施した。ラインをシャープにするなど、伝統を生かしながらも、今の時代に受け入れられるようにした。客の反応は上々だった。

 「自分のスタイルで、時代に合わせて物を作ればいいんだ」。そう思えたとき、それまで重荷だった先祖代々の遺産が、貴重な財産として見られるようになった。

 平成27年、岡部は8代目を継承した。恒例となった大陶磁器展に合わせて、600近い器を作る。

 ある年、陶磁器展の客の多さに心打たれた。「天草に焼き物を見に来てくれる人がこんなにいるんだ」

 金澤らの活動で、天草には若手の窯元が増えてきた。だからこそ、実績を持つ老舗が柱とならないといけないと思う。老舗が良い器を作り続けることが、産地を引っ張る。

 岡部には小学生の2人の子供がいる。窯を継承するかは分からない。少なくとも焼き物屋として成り立つことを見せるのが、当主の務めだと思う。今年は島外からインターンの学生も受け入れた。

 「天草の陶磁器をブームで終わらせず、後世に継承する」。胸中には岡部の矜持が灯(とも)っている。(敬称略)

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