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【地方は滅びず-逆転のモデル-】陶磁器の島(1) 「老舗が土壌をつくってくれた」

器づくりに取り組む余宮隆氏
器づくりに取り組む余宮隆氏

 ■無名産地だからこそ若手が根付く天草

 緩やかな坂を登ると、はるか先に天草諸島の最高峰、倉岳(682メートル)が見える。熊本県天草市五和町。末石昌士(55)がこの地に「陶丘(とうきゅう)工房」を構えたのは、平成11年10月、36歳のときだった。

 20年前の開業日、「やっていけるだろうか」という不安しかなかった。

 「とりあえず1年頑張ろう。挑戦したという足跡だけは残そう」。真新しい工房で、自分を鼓舞した。

 天草諸島は上島、下島を中心に、約120の島からなる。

 「天草五橋」で九州本土とつながる。とはいえ、末石の工房がある天草下島から、熊本市中心部までは車で2時間もかかる。人口減少も進む。商売上、有利な環境とはいえない。

 それでも末石は天草での独立を決めた。「陶磁器の島」として可能性を感じたからだった。

 末石は鹿児島県出水市の出身だ。幼い頃から絵画や彫刻が好きだった。彫刻の仕事をしたこともある。

 熊本市内に転居した後、紹介もあって天草の老舗窯元「丸尾焼」に弟子入りした。18歳だった。

 陶器と磁器の違いも分からない。そんな末石を、丸尾焼5代当主の金澤一弘(61)と、妻の弥和(みわ)(65)が熱心に指導した。

 最初に与えられた課題は、箸置き1千個だった。粘土をこね、一つ一つ形を作った。

 「だめ。やり直し」。その大半は、焼かれることもなく、金澤につぶされた。

 「なんでこんなことをするんだろう」。末石は手を動かしながら、疑問を感じた。

 金澤は「手際をたたき込むための訓練だ」と言った。職人は一つの作品にこだわる。それは重要だが、数をこなさなければ、商売にはならない。

 毎日、粘土を練り、模様や柄をつける釉薬(ゆうやく)を作った。金澤と弥和からは、生活態度も指導された。末石は若さもあって、口べたが過ぎたからだ。

 器を焼成する窯焚(かまだ)きの日は、窯の前で深夜まで火の番をした。

 横から金澤が話しかけてくる。話題は時事ネタや人生観に及ぶ。午前2時を回り、ぼんやりしてきた。構わず金澤は「お前はどう思うや」と意見を求めた。

 金澤は、手作りへのこだわりを繰り返し語った。「機械を使えば量産でき、質も均一になる。でも人の跡が見えなくなる」

 師匠の下、1~2年で作業の大枠は覚えた。小皿、茶碗(ちゃわん)、カップ…。作れる器の種類は少しずつ増えた。年配の職人が去り、新しく入った弟子と、1週間に数百、数千の器を作った。

 それでも、ポットや急須など、複雑な形は難しい。「作家として一人前になるには10年かかる」。金澤の口癖だった。

 実際、すべての器を満足できるレベルで作るのに10年かかった。

 ◆陶石の島

 天草は数百年前から、焼き物関係者にとって、なくてはならない島だ。

 下島の西海岸は、磁器の原料「陶石」の産地だ。高品質な「天草陶石」は、有田焼(佐賀)や清水焼(京都)など、日本中の窯元で使われる。生産量は全国の8割を占める。

 ところが島に窯元は少ない。有田や萩(山口)、小石原(福岡)、波佐見(長崎)など全国に名の通った産地に比べれば、天草の焼き物産地としての知名度はないに等しかった。

 それでも、丸尾焼のギャラリーには、熊本市内や県外から多くの人が足を運び、器選びを楽しむ。

 さらに老舗窯元が行政と連携し、焼き物の産地化を目指す動きがあった。目標は「陶石の島から陶磁器の島へ」だった。

 弟子入りから15年がたつ頃、末石は独立を考え始めた。技術の上達に加え、金澤の行動を見続けたことが大きかった。

 「老舗が『天草に陶磁器あり』という土壌を作ってくれている。良い物を作れば、遠くからも人は来る」

 とはいえ、工房建設費や道具で開業資金は数千万円にもなる。

 迷う末石の背中を、金澤が押した。「自分たちも最初は売れなかった。それでも好きなデザインで作ろうと腹をくくったら、売れ始めた。まあ何とかなる」

 末石は独立を決断した。工房の場所を決め、金を借り、準備を進めた。

 スタートが肝心だと思った。天草下島の西海岸で焼き物の祭りがある日に開業しようと考え、祭り関係者に声をかけた。当日、末石の工房に窯元巡りの陶芸ファンが流れてきた。祭り関係者の誰かが、紹介してくれたのかもしれない。

 それでも閑古鳥が鳴く日も多かった。銀行にローンを返済できない月もあり、金策に走った。

 末石の工房は1年、2年と持ちこたえた。シンプルで使い勝手の良いデザインが評価され、県外での個展やギャラリーとの取引など、販売ルートは徐々に広がった。

 そうするうちに、平成16年に熊本県内最大級をうたった「天草大陶磁器展」が始まった。島を訪れる陶芸ファンも、末石の顧客も増えた。

 ◆自由な環境

 天草の山中に、全国の陶芸専門店が「個展を開きたい」と注目する若手がいる。余宮(よみや)隆(46)だ。末石と同じように丸尾焼で修業した後、窯を開いた。

 釉薬を使った色つやに独創性があり、食べ物を載せれば、よりおいしく見える。テーブルに置けば、なんとなく目を引き、思わず手に取りたくなる。そんな器を作る。

 天草に生まれたが、作家としての出発点は佐賀県唐津市だった。

 高校卒業後、福岡市内の専門学校に進学した。ある日、デパート「福岡玉屋」で唐津焼を目にした。

 「こんな器を作りたい」。伝統美に強くひかれた。

 両親は料理屋を営む。常連客に、海外でも知られた陶芸家、中里隆(82)の知人がいた。中里は、唐津に隆太(りゅうた)窯を構える。

 弟子入りしたいと連絡を取った。熱意あるうちに飛び込もうと、余宮は専門学校を中退し、唐津へ行った。平成3年12月だった。

 「頑張ります」。意気込みを伝えた余宮に、中里は「みんな最初はそう言う」と言った。

 弟子志願者の多くは、テレビもなく、自由に遊びに行けない環境に音を上げ、辞めていくという。

 最初の仕事は窯出しだった。作業着を忘れた。火を落としたとはいえ100度はある窯に、ジーンズとシャツの普段着で入った。「焼き物屋になる気があるのか」と笑われた。

 中里から、訪問客に食事を出し、片付ける手伝いも命じられた。陶芸には無意味に思えた。

 そんな余宮に、中里は「お客さんを呼んで食事ぐらいしないと、こんな高い焼き物は買ってもらえないよ」と諭した。その言葉は、独立後にかみしめることになった。

 ろくろの練習は、師匠や職人が寝静まった後だった。5人いた弟子は、半年で余宮1人になった。

 「無駄なことをするな」。中里の教えはシンプルだった。物を持って別の部屋にいったら、手ぶらで戻らない。効率的に動けば、ろくろの前に座る時間が長くなり、注文が多く取れる。焼き物で生計を立てることにつながる教えだった。

 3年がたち、職人としての道を模索した。隆太窯を出て、バイトをしながら全国の産地を巡った。

 そのころ天草出身の女性と結婚し、地元での就職を考えた。天草の丸尾焼が次の修業の場となった。

 面白い場所だった。丸尾焼には弟子や職人が何人もいた。年に1回「スタッフ展」を開いていた。店の看板に頼らず、自分自身の作品が売れるかを試す販売会だった。

 余宮は最初のスタッフ展で、白く装飾した粉引(こひき)と呼ばれる器を出した。隆太窯の作風が色濃く出たもので、評判が良かった。

 自分の名前で勝負するイメージがわいた。何しろ隆太窯では、弟子の作品を売ることはなかった。

 31歳になった14年、余宮は天草で窯を構えた。「朝虹(あさにじ)窯」と名付けた。

 作家として天草に戻り、地元の魅力に気づいた。自由度の高さだ。

 余宮は、自由気ままな生活への憧れがある。自動車に作品を積んで、各地の陶器市を回ろうと思ったほどだ。作陶にあたっても、「自分の頭に浮かんだ器を作りたい」というのが、最大の欲求だった。

 天草ではどんな器を作っても、誰かと比べられることはない。焼き物産地として無名だからこそ、「これが天草焼」とイメージされるものがないからだ。有田焼や備前焼(岡山)のように、産地の代名詞となる人間国宝もいない。

 そしてどの窯も、飯が食えている。

 余宮は独立から4年後、長野県松本市で開かれるクラフトフェアに、出展が決まった。若手作家の登竜門といわれるフェアで、余宮の器は、複数のギャラリーと取引が決まった。取引先は一気に全国に広がった。

 多忙な日々が待っていた。個展では多いときで2千点の器を作る。

 天草では丸尾焼をはじめ、多くの窯元が地域活性化の活動に取り組む。

 余宮は、多忙に加え、自由気ままな性格もあり、こうしたイベントには参加しない。

 それでも、師匠から受けた恩は胸に刻んでいる。受けた恩は下に返そうと、2人の弟子を取り、1人が独立した。

 余宮は今、作風の代名詞となった「灰釉(かいゆう)の粉引」に加え、木の灰に鉄分を混ぜた飴釉(あめゆう)や、藁(わら)灰を主原料とする藁灰釉も使う。週末の窯焚きは、今も楽しみで仕方ない。

                   ◇

 日本では、陶磁器産業の衰退が続く。安価な製品に押され、全国で窯元は減少する。ただ、天草ではここ20年で、窯元が8軒から30軒に増えた。末石や余宮のように若手作家が根付き、その活躍が次の作家候補を呼び込む-。そんな循環が生まれている。 (敬称略)

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