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【坂東武士の系譜】第4部・激動の時代(37) 中村玄角 義経子孫?宇都宮五指の闘将

 中村玄角は宇都宮家臣で五指に入る闘将。中村城(真岡市中)の城主として領民に慕われていたが、天文13(1544)年10月、結城氏家臣の猛将、水谷(みずのや)正村との激闘の末、討ち死にした。

 正村の攻撃を撃退し、領民と祝杯を挙げた晩に夜襲をかけられたとも。このとき、嫡男・小太郎(時長)に領民を逃し、宇都宮を頼るよう指示。中村城は敵に渡せないので焼いた。時長はその後も宇都宮軍先鋒として正村の久下田城(茨城県筑西市樋口)を攻めたが、旧領奪還はならなかった。中村城跡には遍照寺(へんじょうじ)が移され、周辺にはこうした伝承が残る。

 宇都宮氏と結城氏が中村十二郷をめぐって争った猿山合戦は大永3(1523)年8月(かつては大永6年が通説)。中村城落城は、このときとも考えられるが、その後も中村城をめぐる攻防が続いていたのか。

 中村氏は伝説に彩られた一族だ。一つは伊達氏のルーツである。中村荘を管理し、中村城を築いた常陸入道念西(ねんさい)は、源頼朝の挙兵に馳せ参じた。奥州藤原氏を攻めた奥州合戦(1189年)には4人の息子が従軍。奥州の伊達郡・信夫(しのぶ)郡(福島県北部)を与えられ、伊達朝宗と名乗る。念西の長男・為宗、三男・資綱は本領の常陸伊佐荘(茨城県筑西市)に残り、次男・宗村(為重とも)、四男・為家は伊達へ。系図への異説、念西と朝宗を別人とする説もあるが、いずれにしても中村一族と伊達氏のつながりは深い。

 もう一つは、源義経遺児伝説。養父・為宗に中村荘を譲られた義宗という人物、実は義経の遺児、経若丸であり、後の中村朝定(ともさだ)。奥州・衣川で義経主従は討たれるが、生き延びた常陸坊海尊が経若丸を念西に託したというが…。義経にまつわる怪しい伝説の一つだろうか。玄角はその15代孫という。

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 ■中村玄角(なかむら・げんかく) ?~1544年? 実名不詳。出家して玄角。

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