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【坂東武士の系譜】第4部・激動の時代(35) 佐野宗綱 血気の元日出陣、須花坂に散る

藤岡城跡。沼尻合戦で北条氏が陣を張った=栃木市藤岡町藤岡
藤岡城跡。沼尻合戦で北条氏が陣を張った=栃木市藤岡町藤岡

 天正10(1582)年6月、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、関東の情勢も大きく揺れた。同年、信長は武田氏を滅ぼし、いよいよ、関東進出が本格化する。唐沢山城主・佐野宗綱はその先兵を担うはずだった。

 宗綱は同年3月、信長の関東方面司令長官・滝川一益の軍に加わり、上野(群馬)に出陣。叔父・天徳寺宝衍(ほうえん)(佐野昌綱の弟)は一益の使者として、関東の武将と交渉し、信長に従うよう説得に回った。佐野氏と信長の結びつきは早く、宗綱は天正4(1576)年、信長の推挙で「但馬守」の官名を授かる。佐野市教育委員会文化財課長、出居博さんは「これも天徳寺の働きが大きい」とみている。

 だが、本能寺の変で情勢は一変。北条氏はこの機に乗じて関東から織田勢力の排斥を図り、一益を攻めた。宗綱は一益の要請で出陣したが、敗れた一益は関東から撤退。以後は北条氏が関東を席巻する。

 宗綱は天正12(1584)年の沼尻合戦で、北進を目論む北条軍を迎え撃つ常陸・佐竹氏らの北関東連合軍に参加。栃木市藤岡町地域、三毳山(みかもやま)南端と渡良瀬川の間に両陣営が対陣し、長期戦となった。結局、散発的な小競り合いだけで決着はつかなかったが、その後も北条氏の圧力はますます強まる。佐野氏もその矢面に立たされた。

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