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【坂東武士の系譜】第4部・激動の時代(34)佐野昌綱 唐沢山城めぐり上杉謙信と攻防

みかも山公園の「謙信の鞍掛石」
みかも山公園の「謙信の鞍掛石」

 享禄3(1530)年、越後守護代・長尾家に生まれた「虎千代」が後の上杉謙信だ。元服後、「景虎(かげとら)」。関東管領・上杉家を相続し、「上杉政虎」。室町幕府将軍・足利義輝の一字を受け、「輝虎」。「虎」の字を捨て、謙信と名乗るのは元亀元(1570)年以降である。

 佐野昌綱は謙信と同年生まれと伝わる。獰猛(どうもう)な越後の虎に、居城・唐沢山城(佐野市富士町など)を狙われた。8回攻められたとか、10回以上とか、さまざまいわれてきたが、佐野市教育委員会文化財課長、出居博さんは「史料から確実なのは5回」と判断する。

 永禄5(1562)年2月、6年4月、7年2月、10年10月、13年1月。このほか、城下の放火が1回。謙信はしつこかった。出居さんは「佐野は交通の要衝。東や南への道が延び、上野(群馬)経由で越後に戻るにも抑えておきたい基点だった」と指摘する。すると、「関八州古戦録」に永禄2年、北条軍3万5000に攻められた唐沢山城救援に上杉軍8000が駆けつけ、謙信以下45騎が敵中を押し通って入城した名場面があるが、さすがにフィクションか。

 謙信に従った関東諸将が列記された「関東幕注文(まくちゅうもん)」(1561年)には、桐生衆の中に「佐野殿」の表記があり、昌綱も参陣したとされる。だが、翌年には謙信に攻められている。「佐野殿」は、桐生氏の養子に出した息子との見方もある。その後も謙信に降伏したり、上杉氏の城番が置かれたりしたこともあったが、昌綱はそのたびに離反し、謙信との攻防を繰り返した。

 出居さんは「重臣・大貫氏は北条氏寄り。永禄初期、領内に内紛があり、混乱を収拾する上で家臣団の意向は無視できなかった」と指摘。昌綱がことさら謙信嫌いだったわけでもなく、北条氏とのバランスに苦慮した結果のようだ。

 ■佐野昌綱(さの・まさつな) 1530?~74年? 佐野豊綱の嫡男。1579年死去説も有力だが、同年の肖像画完成が早すぎるとの指摘がある。

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