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【かながわ元気企業】(3)湘南の蔵元「熊澤酒造」 杜氏育成、食文化の象徴目指す

 ■敷地にレストラン、地ビールも展開

 茅ケ崎市内の閑静な住宅街の一角に、緑の木立に囲まれた“オアシス”のような蔵元がある。明治初期の創業から140年以上の老舗で、湘南唯一の蔵元である「熊澤酒造」だ。製品は日本酒のみならず、豊富な種類を取りそろえる地ビールなどを展開。自家製ソーセージやパンを味わえる飲食店なども軒を連ねる蔵の敷地は、今日も多くの人でにぎわいをみせている。

 「湘南の食文化の象徴として、恥ずかしくないものを造っていくというのがコンセプトです」と話すのは、6代目蔵元の熊澤茂吉社長(50)。同社の主力製品は、豊かな米の味わいはそのままに、すっきりとしたのどごしが特徴の日本酒「天青」だ。銘柄の名前は、かつての中国の皇帝が、理想の青磁の色を、美しい雨上がりの空に例えた言葉からとられた。

 ◆金賞に輝く

 また、地ビールの「湘南ビール」は、季節商品なども合わせると、年間で約50種類を生産。このうち、黒ビールの「シュバルツ」は、国際的なビール品評会「ワールド・ビア・カップ」で、2008(平成20)年度に「ドイツ系黒ビール部門」で金賞に輝いた。

 祖父から叔父に受け継がれた蔵元に、熊澤社長が入ったのは24歳のとき。人生の転換点となる知らせに接したのは、米ロサンゼルスだった。

 大学を卒業後、「自分が本当にしたい仕事を見つけたい」と考え、バブル景気に沸く当時の日本を離れた。米国では約10カ月間、ときに野宿をしながら各地を渡り歩き、たどり着いたロサンゼルスで、日本の親族から「造り酒屋を廃業したい」という、思いがけない連絡を受け取った。

 高度経済成長期が終わりに差し掛かる昭和40年代ごろから、日本の蔵元は衰退の一途をたどっていた。経済の発展とともに酒は嗜好(しこう)品としての価値が高まる一方、消費量は減少。洋酒など多種多様の酒が社会に浸透したことも、日本酒を取り巻く環境を圧迫していった。それは、熊澤酒造も例外ではなかった。

 ◆発想の転換

 「生涯をかけてやるべき仕事が、自分の足元にある」と決意して入った蔵元で、最初に力を入れたのは営業だった。しかし、必死に酒の売り込みをするも、状況は好転しなかったという。そこで思い至ったのは、「自分から酒を売り込んでいく」のではなく、「相手から求められるような酒を造る」という発想の転換だった。

 当時、熊澤酒造も他の蔵元と同じく、冬の期間のみ地方から訪れる「出稼ぎ杜氏(とうじ)」に、酒造りを任せていた。しかし、短期間の出稼ぎで来ている以上、彼らの地域への思い入れは強いものではなかった。

 「これからは、地域の食文化を本当に理解できる地元の人が、酒を造るのがふさわしい」。そこで、出稼ぎ杜氏による酒造りをやめ、地元で社員を募集し、新たな酒の造り手に育成していった。こうして、平成12年に完成し、満を持して世に出したのが「天青」だった。

 ◆高品質の少数生産

 また、生産体制も変えた。それまでのように低価格の製品を大量に生産するのではなく、品質の高いものを少数生産する方向にシフト。全体の生産量は減少するため、その分を補うために乗り出したのが地ビール造りだった。

 日本酒造りのピークは冬のため、空いている夏に、地ビールを生産することで醸造技術を活用。欧州などの、小規模のビール醸造所と飲食店が合わさった「ブリューパブ」から着想を得たというレストランも開き、徐々に軌道に乗せていった。

 熊澤社長が追求していく先にあるのは、創業当時の酒造の姿だ。住宅が広がる蔵元の周辺も、かつては青々とした田畑が広がっていた。

 日が暮れると、畑仕事を終えた人々が蔵元に集い、酒を飲み交わしながら語り合う-。蔵元は、地域の人々にとって笑顔の社交場だった。「いろいろな人たちが集まって来られる本来の酒蔵を目指して、今後もさまざまなことを発信していきたい」と、熊澤社長は力強く話した。(太田泰)

                   ◇

 ■熊澤酒造

 ▽所在地=茅ケ崎市香川7の10の7 (0467・52・6118)

 ▽創業=明治5年

 ▽資本金=2400万円

 ▽店舗=本社敷地内に「蔵元料理 天青」など、古民家を利用したレストランやカフェ、地域アーティストのギャラリーなどを展開。茅ケ崎駅前と藤沢駅前にもレストランを出店している

 ▽事業内容=日本酒や地ビールの酒類製造・販売のほか、自家製ソーセージやパンの製造・販売なども手がける

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