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海上交通を守るために-大戦の教訓-(中) 軽視された船団護衛 「商船隊」壊滅、全容いまだ不明

戦没商船のさまざまな資料が展示されている「戦没した船と海員の資料館」
戦没商船のさまざまな資料が展示されている「戦没した船と海員の資料館」

 ■石油輸送、絶たれた生命線 専門家警鐘「現代も傾向続く」

 戦前、日本は世界に冠たる海洋国家だった。100総トン以上の商船は2445隻、639万総トンあった。イギリス、米国に次ぐ世界3位だった。この「日の丸商船隊」が、人や物の流通を担ってきた。だが終戦時、航行可能な状態で残っていたのは80万総トンに過ぎなかった。

 戦中に新たに建造した商船も含めて、2568隻、843万総トンが、米国を中心とする連合軍によって沈められた。

 これだけではない。

 漁船など100総トンに満たない小型船舶も、さまざまな任務にかり出された。70総トン程度の小さな木造船が、インドネシア方面で兵員輸送を担うケースもあった。

 厚生労働省には、戦没船と船員名簿など簡単な記録が残る。小型船を含めれば、損失は7240隻に上る。船員6万人、乗船していた兵士、民間人ら17万人が船と運命を共にしたとされる。日本政府の公式発表では。

 ◆政府発表に疑問

 「戦没船の数字は、非常に疑わしいと思っています」

 こう語るのは、全日本海員組合が運営する「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)の研究員、大井田孝氏(77)だ。

 「終戦直後、政府は都道府県を通して、市町村がまとめた戦没船の数字を吸い上げました。ところが、定義が曖昧だった上、持ち主が申告しないケースも多かった。もっと言うと、一家全滅のような場合、計上すらされないんです」

 戦時中、各地の小さな造船所で、100総トン前後の木造船は大量に造られた。1隻の船に家族で乗り込み、仕事を請け負う「一杯船主」らが購入した。

 もともと建造記録はないし、どこに売られたかも分からない。それを軍が徴用し、輸送任務の最中に撃沈されたとしても、記録はない。

 特に陸軍の記録は少ない。船舶司令部の拠点が、広島にあったからだ。書類は原爆で焼失した。

 「最初、数字が隠されているのかと疑ったんです。でも、記録そのものがなかった。これまでの調査の感覚では、損失隻数は7千ではきかないと思っていますが、正確な数は『不明』としか言えません」。大井田氏は嘆く。

 戦時中の海上交通やその防衛態勢を検証するには、商船の沈没状況を調べるのも有意義だ。だが、日本に戦没商船を一元的に調査する組織はない。

 陸・海軍の徴用船は防衛研究所(防衛省)の調査対象だが、それ以外は海運会社任せだ。日本郵船や商船三井など、現存する大手企業ならまだ資料もあるが、戦後、解体された会社も多い。

 大井田氏は、こうした情報を、米軍の行動記録と突き合わせる。個人による細々とした調査だが、今も、新たな発見があるという。

 「こんな状態では、再び同じ失敗を繰り返しかねません」。大井田氏の不安は尽きない。

 ◆特攻船乗組員

 話を戦時中に戻す。米海軍は開戦初日、無差別に日本商船を撃沈する命令を出した。

 潜水艦で手当たり次第に商船を攻撃するのは、国際法違反だった。

 「真珠湾の奇襲のやり方に対するアメリカの報復-『日本(ジャップ)の奴、国際法も何もかも無視した。よし、そんなら俺の方もそのつもりだ』-という形で、はじめられた」(大井篤著「海上護衛戦」)

 米軍に対し、商船隊を守るのは、日本海軍の役目だった。

 だが、戦史研究者の多くは「海軍は艦隊決戦一本やりで、地味な海上護衛を軽視した」と指摘する。

 米国潜水艦による商船の被害は、じわじわと広がった。海軍が海上護衛専門の部隊を設立したのは、日米開戦から4カ月後だった。

 単独運航が多かった商船も、船団を組むようになる。その集合地点が、九州・門司だった。

 「大型船が何隻も接岸できる岸壁を備え、船団を組む広くて静かな海域もある。鉄道が近くまでのび、兵員や物資輸送の便も良い。好条件がそろっていました」(大井田氏)

 海軍はここに、船団を監督する組織を置いた。

 だが、門司を出た船団は、次々と米軍の餌食になった。数隻から十数隻のタンカーで構成される船団が、護衛艦を含めて全滅することもあった。

 護衛は旧式艦ばかりで数も足りない▽ソナーなど電子兵器の性能不足▽暗号解読により、航路上で待ち伏せされた-。理由は複数挙げられる。

 海の道が細れば、日本は飢える。インドネシアなどからの石油輸送をみると、国内での年間使用量380万キロリットルに対し、日本本土に運び込んだのは昭和17年度143万キロリットル、18年度261万キロリットル、19年度135万キロリットルと激減した。

 それでも、軍事行動と国民生活を支えるには、油を運ぶしかない。門司の街では、死を覚悟した船員が、胸に「油輸送特攻船乗組員」のマークを縫い付け、船出前夜に杯を交わして励まし合ったという。

 20年3月、門司行きの船団が、シンガポールを出港した。タンカーなど輸送船7隻が参加したが、門司には一隻もたどり着けなかった。これ以降、日本本土への石油輸送は、完全に途絶えた。

 結局、海上護衛戦は最後まで負け通しだった。

 ◆安易な批判は

 日本が戦争を始めた大きな理由の一つが、石油を求めたことだった。にも関わらず、海上交通を守りきれず、戦争遂行がおぼつかなくなった。

 だが、すべての責任を海軍だけに押しつけることはできない。

 日本海洋調査会元代表の故・土井全二郎氏は、著書「撃沈された船員たちの記録」(平成20年)で、海上護衛戦を軽視した「当時の軍部をそう安易に批判する気にはなれません」と書いた。

 「それが、当時の一般的なとらえ方でもあったから」であり、「状況は変わっても、こうした傾向は現代でも続いていることでもあるから」だという。

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