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海上交通を守るために-大戦の教訓-(上) 日の丸商船隊の運命「無駄死にでは…」今も残る悔しさ

「同期生はほとんどが亡くなった」。名簿に目を落とす小山田博氏
「同期生はほとんどが亡くなった」。名簿に目を落とす小山田博氏

 ■小山田氏は空襲、魚雷2度沈み生還 友の慰霊続ける

 先の大戦中、九州・門司を拠点に原油や食料を求めて外洋に出た商船が、連合軍に次々と沈められ、日本は困窮した。大戦終結から74年。中東のホルムズ海峡で今年6月、日本の海運会社が運航するタンカーが何者かに攻撃され、その後もタンカーの拿捕(だほ)が相次ぐ。島国・日本の生命線をにぎる海上交通を守るため、過去から学ぶべきことは多い。

 東京都目黒区の小山田博氏(96)は、戦時中、5隻の商船を乗り継いだ。そのうち2隻は米軍の攻撃で沈められた。小山田氏も海に投げ出され、九死に一生を得た。

 「でも、2回3回と沈められるのは、当時は普通でした」

 戦時中、日本の船員の死亡率は44%に達した。陸・海軍人の戦死率19%をはるかに上回る。小山田氏が商船学校で机を並べた同期生は、半数が犠牲になった。

 「今でも悔しい。何かをやり遂げたという感覚もなく、皆死んでいった。言葉は悪いけれど、無駄死にだったと思います」

 小山田氏は言った。

 ◆死んだと思えば

 小山田氏は、東京・隅田川の近くで育った。川でカッターを漕ぐ商船学校の生徒を見ているうち、船員を志すようになった。

 昭和16年10月、神戸にあった高等商船学校に入った。専門知識を持った船員を養成する学校だった。

 天文・地文学、羅針盤の操作方法、モールス信号や手旗信号など、航海に必要な基礎をたたき込まれた。教育期間は本来3年だが、戦局の悪化により短縮され、18年10月に卒業した。

 卒業前から「乗船実習」の名目でタンカーに乗り込んでいた。そのまま、三井船舶(現・商船三井)に入社した。

 19年3月、太平洋のパラオで、3等航海士として貨物船「那岐山(なぎさん)丸」に乗り込んでいた。ボルネオ島で航空機の燃料用ガソリンを積み込み、海軍の拠点ラバウルまで輸送する途中だった。

 国家総動員法に基づき、全ての商船の運航管理は政府が担っていた。民間会社とはいえ、実質は政府の命令で動くことになる。

 太平洋は、米軍の潜水艦が跋扈(ばっこ)していた。いつどこで沈められても、おかしくなかった。

 「死んだものと思えば、何も怖くない」。誇張ではなく、本気でそう思った。

 ◆頼みの海軍は…

 パラオには海軍の主力が停泊していた。戦艦「武蔵」を目にした。タンカーから給油を受けているところだった。

 「大きなタンカーも、武蔵の横では母親にすがりつく赤ちゃんのようでした。これなら日本は大丈夫だ、と思ったものです」

 安心はつかの間だった。海軍が慌ただしく出港した直後、米軍による空襲が始まった。

 「あの周辺は、海面からにょきっとキノコが生えたような形の島が点在していた。船長の命令で、ぎりぎりまで島に寄せました」

 島影に入り、急降下爆撃から隠れようとした。だが、米軍機は機銃掃射をしながら、次々と降下してきた。海面は爆弾と機銃弾で絶え間なくしぶきが飛ぶ。

 航海士は、ブリッジを離れるわけにはいかない。突っ込んでくる米軍機を見て、思わずメモ用紙で顔を覆った。

 空襲開始から数時間後、積み荷が燃え始めた。航空ガソリンのドラム缶だ。次々と誘爆し、手がつけられない。船長の判断で、全員救命ボートに乗り移った。

 米軍はボートにも機銃掃射を浴びせてきた。何とか島の洞窟に避難した。

 やがて爆発音やドラム缶のはじける音が聞こえた。断末魔のようだった。攻撃が終わった後、那岐山丸は海面になかった。

 それから60年後の平成16年。小山田氏はパラオを訪れた。80歳を超えていたが、ガイドに頼み込んでダイビングをし、海底に眠る那岐山丸と再会した。

 「貝殻だらけになっていた。何だろうなあ…。何とも言い難かった」

 ◆押せばへこむ

 戦時中、日本は膨大な商船と船員を失った。

 日本は、短い工期で量産できる戦時標準船(戦標船)の建造に着手した。

 用途別に複数のパターンがあるが、材料や工程数を徹底して節約・削減した。

 「甲板の水漏れや喫水線下の船体舷側からの水漏れは日常茶飯で、引き渡し後に個々に乗組員の手で最低限の補修や修繕が行われるという物凄(ものすご)い船が出来上がっていた」(大内建二著「商船戦記」)

 小山田氏が那岐山丸の次に乗り込んだのが、戦標船「第七蓬莱丸」だった。

 880トンと当時としても小さなタンカーで、乗組員は23人。小山田氏は、船長に次ぐ立場の1等航海士を任された。

 「手で押したら、ぺこんとへこみそう。一発でも食らえば人生終わりだと覚悟しましたし、もうこの程度の船しかできないんだなぁと、しみじみ思いましたよ」

 昭和19年11月、門司を出港しボルネオ島で原油を積んだ後、フィリピン・マニラに向かった。小型船ばかり7隻で船団を組み、護衛艦とともに航行中、突然、船団中央の船が爆発した。

 「潜水艦の攻撃でした。いつ、この船もやられるか分からない。ボイスチューブ(伝声管)で船底にあるエンジンルームに『上がれ』と指示を出し、双眼鏡で必死に見張りました」

 ブリッジの方が安心と思ったのだろうか。服を着ながら駆け上がってくる年老いた船員もいた。その姿に不快感を覚えた瞬間、すさまじい音が響いた。顔に海水がかかり、海中に引き込まれた。

 懸命にもがいて浮上した。積み荷の原油が水面を覆い、腕でかいても海面は見えなかった。

 2時間以上漂流し、船団の別の船に救助された。大きなけがはなかった。

 後で、第七蓬莱丸の最期を聞かされた。魚雷命中と同時に、バラバラになった鉄板と黒い原油が空中に噴き上がった。それが収まったときには、船影は消えていた。

 小山田氏は、さらに貨物船1隻を乗り継ぎ、終戦を迎えた。

 戦後、復員輸送に従事した後、昭和24年に陸に上がった。三井倉庫に勤め、船の運航や積み荷の管理に携わった。平成2年まで、仕事を続けた。

 今は、趣味の絵画を楽しみながら、静かに過ごす。描くのはもっぱら商船だ。海底で再会した那岐山丸も先日、描き終えた。

 「商船学校の同室で、休日になると京都で寺めぐりをした三輪佑吾君、同じ船に乗り、寄港したマニラで一緒に買い物した森田明君、皆戦死した。私の少年時代、『四方を海なる帝国を』なんて言いましたが、その支えとなって死んだんです」

 戦後74年、戦争を生き残った同期生も、ほとんどが旅立った。小山田氏は今も、全国各地にある船員慰霊碑を巡り続けている。

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