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【あの戦争 人語り】「目の前1センチ」の銃撃に命拾い 静岡市清水区・百々勇司(どど・ゆうじ)さん(92)

 ■防空壕に162人生き埋め

 材木商の家に生まれ、地元の清水中(現・清水東高)を卒業後、奈良県丹波市町(現・天理市)にあった三重海軍航空隊奈良分遣隊に志願して入隊しました。その後に移った茨城県阿見町の土浦海軍航空隊に所属していたとき、運命の一日が訪れます。昭和20年6月10日のことです。

 この日の朝、隊長に呼び出されて「士官宿舎の消火器の配置につけ」と指令を受け、1人で別行動をしていました。悲劇が起きたのは一瞬でした。隊には約2千人の隊員がいましたが、米軍の大空襲を受け、敷地内にあった巨大な防空壕(ごう)に約300人が避難しました。ところが防空壕そのものが空襲の影響で崩れ、162人が生き埋めとなりました。

 私も逃げる際、米軍のP51戦闘機から目の前1センチほどのところに銃撃を受けましたが、奇跡的に命は助かりました。私たちは、生き埋めとなった仲間たちを防空壕から掘り起こさなければならなかった。むごいことです。あの光景を忘れることはありません。

 空襲からそれほどたたないある朝、司令から呼集がかかり、練兵場に集められました。300人はいたと思います。「特攻隊を募集する。希望者は一歩前へ」。突然の指示でした。すると、ほぼ全員の軍靴の足音が「バッ」と静寂な練兵場内に大きく響きました。特攻といっても戦闘機ではなく、船に爆弾を装着して相手艦に突っ込むというものです。あの軍靴の音は今も耳から離れません。

 結局、特攻隊員として出撃することなく8月15日を迎え、終戦後、ふるさとの清水に戻りました。大きく立派だと思っていた清水市上町(当時)の実家は跡形もありませんでした。終戦間際の清水空襲で米軍の攻撃を受け、一帯は焼け野原となりました。幸いにも家族は無事でした。

 復員後は清水市の市議などを務め、清水港や街の発展に力を尽くしました。きっと、不条理にも命を奪われた多くの仲間たちが私のことを守ってくれたのでしょう。ありがたい人生だと思います。(那須慎一)

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 先の大戦の終結から、この夏で74年となる。戦地での過酷な体験。空襲におびえ続けた日常生活。空腹に苦しんだ命の危機…。昭和から平成、そして令和へという時代の流れとともに、惨禍の記憶は風化の危機にさらされている。15日には令和に入って初めての終戦の日を迎える。死と隣り合わせの厳しい時代を生き抜いた人たちに「あの戦争」の実相を語ってもらう。

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【用語解説】土浦海軍航空隊

 霞ケ浦海軍航空隊から独立し、航空機搭乗員を養成する機関として昭和15年に現在の茨城県阿見町に発足。20年6月10日の空襲では、同隊で訓練を受けていた海軍飛行予科練習生(予科練)や教官らが亡くなった。

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【用語解説】静岡・清水空襲

 静岡平和資料センター(静岡市)によると、昭和19年11月以降から終戦までの約9カ月間、米軍の空襲は静岡地区で15回、清水地区で11回を数えた。駿河湾は米軍のB29爆撃機が首都圏や名古屋方面へ向かう通り道だったため、余波を受けた。

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