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【あの戦争 人語り】ソ連軍侵攻で命からがら避難 前橋市・大山秀逸(ひでいつ)さん(79)

 ■忘れられない悲惨な光景

 私は昭和15年3月、満州(現在の中国東北部)の北部、北満の地で生まれました。父はソ連と満州の国境警備のため特務機関員として赴任していました。

 宝清(現在の黒竜江省双鴨山市)で平穏な生活を送っていたある日、突然、ものすごいサイレンの音が鳴り響きました。20年8月9日、ソ連軍の侵攻を知らせる空襲警報でした。生まれて初めて聞くすさまじい音に「戦争が始まったのかな」と思いました。

 しばらくすると、県公署(県庁)から「脱出しろ」との命令が。私は母、弟とともに木炭車のトラックの荷台に乗りました。日の丸の旗を風呂敷代わりに、わずかな着替えを包んで首から下げました。最強を誇っていた関東軍は居留民を残し撤退していました。

 トラックは間もなく故障。一緒に避難したのは100人ぐらいだったでしょうか。ひたすら歩き続けました。それまで友好的だった中国人らが石を投げてくる。荒野で襲撃に遭い、集団を指揮していた数人が簡単な武器で応戦しました。父もその一人でした。銃弾が「ヒューン、ヒューン」と飛んできました。

 匪賊(ひぞく)や馬賊にも頻繁に襲われました。コーリャン畑に飛び込み体を伏せ、1人の男性が飲み水をくみに行こうと畑を出た瞬間、凶弾に倒れました。「うわぁー」という悲鳴が今も耳に残っています。

 1カ月ほどして三道崗(さんどうこう)に着きましたが、既にソ連軍の手中にありました。父は他の指揮者とともに連行されました。「銃殺された」という臆測もささやかれました。もっとも、10年後に父は生きていることが分かり、再会を果たしました。

 私たち難民は行く先が定まらないまま歩きました。私は湿地帯で靴が脱げ、足の傷が化膿(かのう)しました。けが人や病人のうめき声も絶えませんでしたが、誰も目を向けません。途中、母は水を欲しがりながら病死。幼い弟もアブに刺されて死にました。枕元に赤いホオズキを供えました。

 最終的にはハルビンにたどり着き、28年に祖国に引き揚げることができました。でも、さまよい歩いた難民生活で見た悲惨な光景は忘れられません。死体の数々や死んだわが子をおぶり続ける母親…。今は幸せな時代だと、つくづく思います。(椎名高志)

                   ◇

 ◆ソ連軍の侵攻

 日本時間の昭和20年8月9日午前0時、日ソ中立条約を一方的に破り、ソ連軍80個師団157万人が満州に一斉侵攻した。7年3月に建国された満州国には終戦時、推定約155万人の民間邦人が在留し、軍民合わせて約24万5千人が命を落とした。さらに将兵ら約60万人がシベリアなどの収容所に連行、強制労働をさせられ約6万人が死亡した。

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