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【国家を哲学する 施光恒の一筆両断」世代を超える特攻隊の意味

 蒸し暑いお盆の季節ですね。終戦の日も近づいています。先日、鹿児島の知覧特攻平和会館を訪れる機会がありました。陸軍特別攻撃隊員として作戦に参加し、戦死した兵士の遺書や遺影、関係資料を展示している施設です。

 私が訪れた日は天候が悪く、来館者はさほど多くはありませんでした。ですが、ほとんどの人々は、兵士の遺書を読んだり記録映像を見たりしながら涙を流していました。

 兵士の遺書の多くに共通して表れていたのは、日本の行く末を強く想う気持ちと同時に、自分の死を悲しむであろう両親や兄弟姉妹、妻子、婚約者らをおもんぱかる心でした。これから死に赴く自分のことよりも、自分の死の報に接し悲嘆にくれるであろう人々の悲しみを和らげることを第一に考え、そのために表現に気を配っていたことが、多くの遺書から伝わってきます。死に直面してもなお自分のことより他者を顧慮する、まさに無私の精神に感銘を受けずにはいられません。特攻隊の兵士の遺書は、われわれに強く訴えかけてきます。

 「特攻隊の兵士は結局、犬死だった」「戦争の犠牲になった無駄な死だった」。そんな声を時折、耳にします。私はそうは思いません。特攻隊員の死の意味はまだ確定してはいないと思うからです。

 特攻隊員の話と特に関連する文脈ではないのですが、最近、ノンフィクション作家の柳田邦男氏が「『人間、死んだら終わり』ではない」という一文をある雑誌に寄せていました(『PHP』2019年8月号)。「人間、死んだら終わり」と一般によく言われますが、柳田氏はそうではないと述べます。なぜなら、「人の精神性のいのちを映す最後の生き方や言葉は、遺(のこ)された人の心に生き続け、その人生を膨らませていくから」です。柳田氏は、このことを「死後生」と呼んでいます。つまり、人は死んだ後も他者の心に影響を与えることができるし、そのことによって、死んでしまった人の人生も新たな意味を帯びるようになるということを表しています。

 柳田氏のこうした考えは、特攻隊員にも当てはまるでしょう。特攻隊の人々が犬死であったか否かは、後世のわれわれの態度にかかっていると言ってもよいでしょう。例えば、ある特攻隊員の遺書や辞世の歌に感銘を受けた若者が、自分も国のため、他者のために精いっぱい生きようと決意し、何事かを成し遂げるとすれば、その特攻隊員の人生には新しい意味が一つ加わることになります。逆に、われわれが、特攻隊員のことを語らなくなったり、あるいは彼らは当時の教育に洗脳された単なる「かわいそうな人」だったと受け取り、その死に心を動かされなくなったりすれば、彼らの死は意味を失っていかざるを得ません。

 このように考えると、今を生きるわれわれにできることとは、特攻隊員のことを記憶し続け、後世に語り継ぐことでしょう。また同時に、特攻隊の遺書や辞世に心を揺さぶられ、涙する日本的な感受性の継承も大切です。そうした記憶や感受性の世代を超えた連鎖のなかに、亡くなった人々の遺志は生き続け、彼らの人生が新しい意味を帯びる可能性も残されていくのです。

                   ◇

【プロフィル】施光恒

 せ・てるひさ 昭和46年、福岡市生まれ、福岡県立修猷館高校、慶應義塾大法学部卒。英シェフィールド大修士課程修了。慶應義塾大大学院博士課程修了。法学博士。現在は九州大大学院比較社会文化研究院准教授。専攻は政治哲学、政治理論。著書に『英語化は愚民化』(集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など。「正論」執筆メンバー。

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