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【伊奈かっぺい綴り方教室】思い込む思い上がりの健康法

 ツマランモノを見つけると嬉しくなる。何を言っておるのだツマランモノはツマランに決まっておるではないかと大概おおかた反論を受ける。

 それでもツマランモノを探して見つけると嬉しくなる。この思いと行動をどのように説明するとわかっていただけるだろうか。

 当たり前に存在するものをツマランモノと決めつける。これがわかりやすいかも知れない。言い方を変えると「他人の言葉尻をとらえて揚げ足を取る」これに尽きるかも知れない。

 それそのものは決してツマランモノではないのだがツマランモノと決めつけて、つまり言葉尻をとらえて揚げ足を取る。「触らぬ神にたたりなし」と聞いたら即座に「触れぬものなら女神が良い」と続ける快感。「孝行をしたい時には親はなし」と聞いたら間髪をいれず「孝行をしたくなくても親がいて」とつぶやいてみる恍惚。「墓に布団は着せられず」と言われたら「軽いタオルケットなら着せてみたことがあるョ」とひと言添えてやる優しさ(自分にしてみれば単なる過去の体験談)

 「巧言令色鮮(すくな)し仁」だと。時々耳にしたことがあるような気もする言葉だがサテ正しい意味を知っていたかどうか“鮮し”と書いて“すくなし”と読むのか。“鮮”とかく新鮮なものは少ないとでも覚えておくか。

 「巧言令色鮮し仁」(論語)口先がうまく顔色をやわらげて人を喜ばせ、こびへつらうことは仁の心に欠けること、だと。

 論語ともあろうものが何たること。「口がうまく、やたらと愛想のよい人はそれはそれで立派じゃないか。口が下手で周りに愛想のひとつも振りまけないような人に仁も徳もあってたまるか」ではないか。“論語”と知っても怖気付かない図々しい自画自賛型。爺が自賛と書いてもコレッポチの違和感を感じさせない流れに快感と恍惚を覚えるほどで。

 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」これも論語とは知らなかった。度を過ぎてしまったものは程度に達しないものと同じで、どちらも良いことではない、だと。「何に及びたかったのかどうかは知らないが及んだくらいで止めるなよ、どうせやるなら過ぎるくらいまでやろうじゃないか。及ばなくたって良いじゃないか、過ぎるほどやれたんだから」とは考えられないものか、だ。

 当たり前に在るものをツマランモノと決めつけて自分が少し上に立ってみる“遊び”それが言葉尻と揚げ足の真骨頂なのだと思いたい。

 「据え膳喰わぬは男の恥」すぐに続けて「その据え膳、据えない場合は女の恥」冗舌な快感。

 「あとは野となれ山となれ」さぁてその今現在はどこにいるのだろう。野でも山でもないのであれば谷間の川の中だろうか、あとのことより今の今を心配したらどうだ。

 「捨てる神あれば拾う神あり」捨てられたり拾われたりしているのも神だろか、それとも人間なのだろか。私は知らない。

 「知らぬ顔の半兵衛」へぇ、顔も知らないのに名前は半兵衛だと知っているなんてスゴイね。何がスゴイのかも知らないけど。

 「清濁併せ呑む」私と同じだ。清酒だろうが非合法の濁酒だろうが目の前にあれば来るがまま受け容れる度量の大きいこと、私と同じだ。

 当たり前に在るものをツマランと思い込む思い上がりは健康にも良いと信じている。だから本当にツマランモノを見つけた時の喜びたるや。この一文を読み終えた貴方と一緒かも。 =次回は25日に掲載します。

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