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【坂東武士の系譜】第4部・激動の時代(30) 那須資房 両家統一、戦国大名への第一歩

烏山城跡=那須烏山市城山
烏山城跡=那須烏山市城山

 上那須家の自滅で約100年、並立していた上那須・下那須の両家は、下那須家・那須資房の下で統一された。大田原市那須与一伝承館の重藤智彬さんは「那須氏はようやく戦国大名として第一歩を踏み出したといえる」と指摘する。

 南に宇都宮氏、東に佐竹氏、北には白河結城氏、岩城氏、芦名氏といった旧来の勢力がそれぞれ地盤を持っている。那須氏が分裂して、小さい勢力のままでは周辺勢力とわたりあっていくのは難しい。戦ったり、同盟したり、うまく立ち回るにも、それなりの実力が必要だった。

 資房は、那須資親(すけちか)の跡目をめぐる上那須家の内紛では、資親の実子・資久を支援。資親の養子・資永を攻めた大田原氏ら資久派重臣は、上那須家断絶後、資房に従った。

 江戸時代の書物「那須記」によると、上那須家の断絶後、宇都宮成綱(しげつな)が「自分の弟を継がせてもいい」と大田原氏、大関氏に持ちかけてきた。成綱は、資親の長女を妻としており、資永に惨殺された幼い資久の義兄。その立場を利用して上那須家乗っ取りを画策したか。資永を攻め滅ぼした上那須家重臣としては、資永の実家・白河結城氏に対抗する力はなく、「宇都宮の加勢があれば…」と誘いに乗ってもおかしくない状況だった。

 資房は上那須家断絶後、素早く手を打ったようで、この画策を防いだ。重藤さんは「上那須家の家臣団を取り込み、一つにまとめあげた資房は、カリスマ性があったかもしれない」とみている。

 永正17(1520)年や大永元(1521)年には、白河結城氏や岩城氏らの連合軍が侵攻。資房は自害を決意するほどの苦戦を強いられたが、岩城氏の家臣を討ち取り、戦況が急転。圧倒的多数の連合軍を撃破したこともあった。

 岩城常隆との遺恨は深かったが、その後、和睦。常隆の娘を政資の妻に迎え、孫の高資が生まれる。

■那須資房(なす・すけふさ) ?~1552年。那須資実の子。子・政資や孫・高資よりも長生きする。

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