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【坂東武士の系譜】第4部・激動の時代(29)那須資永 養父遺言で内紛、悲劇的な結末

 那須氏は15世紀はじめ、福原城(大田原市福原)などを拠点とした「上那須」、烏山城(那須烏山市城山)を拠点とした「下那須」の両家に分裂した。享徳の乱(1454~82年)では、上那須家が室町幕府や関東管領・上杉氏と連携し、下那須家は古河公方を助けて上杉氏と戦うなど約100年に及んで対立。だが、上那須家の自滅で、那須家は再統一された。江戸時代初期にまとまった那須地域の地誌「那須記」では、その悲劇的な経緯が記述されている。

 上那須家当主・那須資親(すけちか)には3人の娘がいたが、男子に恵まれなかった。長女は宇都宮成綱に嫁ぎ、次女の婿として白河結城氏の結城義永の次男を迎えた。那須資永である。無論、上那須家を継ぐはずだった。だが、その後、資親に実子・資久が生まれた。資親は死の間際、「実子に家を譲れず、婿の資永に継がせることは残念だ」と言った。この遺言を聞いたという重臣・大田原胤清(たねきよ)、資清親子が山田城(大田原市片田)で資久を守る大関氏、金丸氏らを誘い、永正11(1514)年8月2日、福原城の資永を攻めた。多勢に無勢、落城寸前のその夜、資永の家臣8人が大雨に紛れて城を抜け出し、守りが手薄な山田城から幼少の資久を誘拐。翌日、資永は資久を殺した上で自害した。

 那須記は、脚色や伝承もあり、どこまで事実か不明だ。大田原氏ら重臣が、白河結城氏の影響力が強まるのを嫌い、画策したのだろうか。結果は完全な裏目。大田原市那須与一伝承館の重藤智彬さんは「相手を道連れにしてしまうとは、資永は大胆で、執念深い。家督を継ぐはずだったプライドがあったのかもしれない」と話す。共倒れの結果、上那須家は断絶。ただ、大田原氏ら重臣も、この機に乗じて上那須家乗っ取りを図ることはなかった。重藤さんは「那須家あっての家臣という意識は持っていた」と指摘する。重臣たちは下那須家の那須資房に従って白河結城氏ら外部の脅威に対応。那須家の分裂は約100年ぶりに解消される。

 ■那須資永(なす・すけなが) ?~1514年ごろ。実父は結城義永。那須資親の養子となった。

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