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【坂東武士の系譜】第4部・激動の時代(28) 結城政朝 生涯4戦4勝、生身の摩利支天

結城政朝ゆかりの孝顕寺=茨城県結城市
結城政朝ゆかりの孝顕寺=茨城県結城市

 宇都宮忠綱と、義兄弟の結城政朝は協力関係にあり、それぞれ家臣団の統制にリーダーシップを発揮していた。忠綱の父・成綱が「宇都宮中興の祖」なら、政朝は「結城中興の祖」である。

 混迷を脱却し、勢力拡大を図る忠綱の危機は、佐竹・岩城連合軍が攻めてきた竹林の戦い(1514年)である。竹林は、宇都宮城も間近の最終防衛ライン。江戸時代初期成立の家伝「結城家之記」によると、政朝自身も出陣して忠綱に加勢。結城勢だけで敵兵500人以上の首を挙げる大勝利だった。

 だが、その後、両家は仲たがいの状態となる。県立博物館学芸部長の江田郁夫さんは「共通の敵をめぐり連合している間はよかったが、境界領域をめぐって微妙な関係となる。家中の反主流派が隣国と結びつくケースもある」と指摘する。対立の要因は中村十二郷(真岡市)の所領問題。宇都宮家中で逼塞(ひっそく)を余儀なくされた芳賀高経(たかつね)が政朝を頼ってきたこともあり、高経を宇都宮に復帰させるという名目で、政朝は宇都宮に攻め込んだ。宇都宮南東部での猿山合戦(1523年)は政朝の勝利。忠綱にとっては手痛い敗戦となった。強力なリーダーシップの裏返しで、これまで抑え込まれていた家臣団の反発が表面化、宇都宮城に戻れず、壬生氏の鹿沼城に逃れた。

 「結城家之記」は、猿山合戦を「第四度之武辺(ぶへん)(武功)」とし、生涯4度の主な合戦を全勝した政朝を「生身の摩利支天(まりしてん)」とたたえる。摩利支天は多くの武将が信仰した仏教の守護神。同書によると、死の間際、嫡男・政勝と小山氏を継いだ次男・高朝に対し、「自分が死んだら、時を移さず小田(常陸の戦国大名)、宇都宮が攻めてくるであろう。討ち取ったやつらの首を墓前にささげよ。それが(自分への)供養である」。戦国を生き抜いた武将らしい遺言を残している。

 ◆結城政朝(ゆうき・まさとも) 1477~1545年。結城氏広の嫡男。妻は宇都宮成綱の娘。城の西側に建立した永正寺は、その後、移転し、政朝の戒名にちなんで孝顕寺となった。

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