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【ラグビー史伝 迫るW杯 彩の国】人物編(1)宿沢広朗

 ■熱心に研究、最高のスクラムハーフ

 令和元年の今年はラグビーワールドカップ(W杯)日本大会が9月に開幕し、熊谷市でも3試合が行われます。これにちなんで5月に埼玉県のラグビーの歴史を紹介しました。開幕まで100日を切り、県内も日増しに熱気を帯びつつある中、今回は「人物編」として埼玉が生んだ伝説のラガーマンを紹介します。

                   ◇

 日本ラグビー史上最高のスクラムハーフ(SH)として知られる宿沢広朗。昭和25年、東京都日野市生まれで、父親の転勤で中学生になるころ、吹上町(現在の鴻巣市)に引っ越してきました。学校の成績は常にトップクラスでしたが、「浦和高校は遠いから…」と熊谷高校に進学します。高校に入ると、ラグビー部を選びます。後に「野球やサッカーなら中学時代から鍛えている人が多い。同じ条件で始められるのはラグビーしかないと考えた」と語っています。

 練習の中で、宿沢は自分の性質、体格や運動能力にピッタリの「スクラムハーフ」というポジションを知ります。入部まもなく、砂場でダイビングパスの練習を繰り返す姿をみた他の部員たちは、宿沢の才能や将来性を十分に感じていました。

 その後、ラグビーを続けながら、現役で早稲田大学政経学部に合格。しかし、入学してすぐにラグビー部の門をたたくことはしませんでした。宿沢の早大入学後からラグビー部入部までの経緯には諸説あるのですが、当時のチームメートの話によると、「(早大ラグビー部の練習場の)東伏見にいつもノートを持って練習風景を見に来ている奴がいる。ひょっとしたら明治大学のスパイじゃないか」と不審に思われたといいます。

 そこで宿沢に真意を問いただすと、早大ラグビー部の練習を分析した内容をノートに書いていたそうです。「それなら練習に来い」。こんな具合で入部しましたが、宿沢は入部後の菅平合宿で頭角を現し、1年生ながらスクラムハーフとしてレギュラーを獲得しました。

 研究熱心だった宿沢は、過去にとらわれず新しい戦法を考え、失敗を繰り返しながらも、あきらめず実践していきました。それは従来のスクラムハーフのイメージを変え、自らボールを持って走ったり、キックをしたりと多彩なプレーでした。

 大学4年になると、主将になります。大学ラグビー生活として最後のシーズンだけに、宿沢は大学3連覇、その先の日本選手権3連覇を目指して臨みました。ところが、大学選手権の決勝で対戦した明治大学に試合終了間際、トライを許し、逆転負け。大学ラグビーの最後はほろ苦い結果となりました。

 大学卒業後の宿沢は多くの企業からの誘いを断り、「住友銀行」(現在の三井住友銀行)を就職先に選びました。入行後2年間は日本代表の位置をキープしましたが、その後はプレー続行に固執しませんでした。

 現役引退後は日本代表監督、早大監督を経て日本代表強化委員長・理事としてラグビー協会に残り、日本ラグビー界の発展に寄与したことも知られています。

 しかし、平成18年6月、悲報が飛び込んできます。登山中だった宿沢は心筋梗塞を発症し、55歳で他界。葬儀には各界から4千人が参列し、別れを惜しみました。

 ラガーマンとしても、サラリーマンとしてもエリート的存在だった宿沢には有名な座右の銘があります。

 「努力は運を支配する」

 「勝つ事のみ善である」

=敬称略

(松本博之・ぶぎん地域経済研究所取締役調査事業部長)

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