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【ラグビー史伝 迫るW杯 彩の国】歴史編(4) 名将勇退の熊谷工、初決勝で不運

 昭和時代の県内高校ラグビー界は熊谷工を抜きにしては語れません。

 商業と工業に分離する前の熊谷商工が第38回全国大会(昭和33年度)に県勢として初出場して以降、昭和最後の第68回全国大会まで県勢の出場校は延べ27校。うち熊谷工が15回も出場しているからです。

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 全国大会の第64回(59年度)と第65回(60年度)でベスト4に輝いた熊谷工。59年度は、その後に日本ラグビー史上最高のスクラムハーフと評された堀越正己(現在は立正大ラグビー部監督)が1年生として熊谷工ラグビー部に入部した年でもあります。

 定年退職を目前とした監督の森喜雄は堀越を中心としたチームづくりに着手し、その執念は3年生の堀越が主将で臨んだ第66回全国大会(61年度)に初の決勝進出という形で実を結びます。熊谷工関係者はもちろん、県ラグビー関係者が長年待ち望んだ快挙に県内は沸き上がりました。

 同時に「第66回」の花園は、森が熊谷工ラグビー部を指揮する最後の大会でした。熊谷工は平均体重73キロと小型フォワードながら堀越を中心にバックスの展開力に富んだチームづくりが奏功して勝ち進んでいきます。迎えた決勝戦。相手は強豪の国学院久我山(東京都)でした。

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 名将と一つでも多く試合をしたい-。そんな部員たちの熱意もあって臨んだ決勝ですが、熊谷工に不運が襲います。堀越が風邪を患い、高熱を出してしまったのです。司令塔は自身の体調不良を承知で強行出場しますが、当然のごとく、身体は思うように動かず、前半でベンチに下がりました。司令塔を欠いた熊谷工の劣勢は否めず敗戦し、悲願の初優勝に手が届きませんでした。「日本で2番目だ。胸を張れ」。森は試合後、こう選手をたたえたといわれています。

 森は全国大会後、熊谷工を離れますが、全国大会準優勝1回、3位3回…など、熊谷工の前身、熊谷商工ラグビー部も含めて38年間にわたってラグビー部を率いてきた名将の功績は計り知れません。

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 決勝は森だけではなく、主将の堀越にとっても一生忘れられない大会となったでしょう。体調不良で決勝を途中交代せざるを得なかったのは、前日、雨天で臨んだ準決勝で大阪工大(大阪府)を下した試合後、堀越がぬれたユニホームのまま記者団による長時間の取材に対応し、風邪を発症したからです。

 「堀越が万全でフル出場していたら…」。県内のラグビーファンにとって今も話題に上るほど記憶に残る一戦でした。ちなみに堀越への準決勝後の取材がきっかけとなり、花園での取材の手法が見直されたとされています。

 その堀越はラグビー協会誌で熊谷工時代について「ラグビーの『ラ』の字も知らない私が熊谷工はラグビーが強いというだけの理由で入部を決心しました」と述懐し、恩師の森に関してこうつづっています。

 「森監督は私の人生を開花させてくれた恩人でもあります。良き指導者に会うことができ、やめずに続けて本当に良かった。ラグビーこそ私の人生だ」=敬称略(松本博之・ぶぎん地域経済研究所取締役調査事業部長)

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